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偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

ヤマト2202と銀河:④2199-2202における「人類最後の希望」

  • はじめに

 前回までの記事では、「人類最後の希望」という概念を用いて所謂「旧作」すなわちパート1から復活篇に至る一連のヤマトシリーズを捉え直してきましたが、今回の記事では、リメイクシリーズの作品である『宇宙戦艦ヤマト2199』(以下、2199)及び『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(以下、2202)を見ていきたいと思います。とはいえ、両者はリメイクである故に前回までの記事で取り扱ったパート1や「さらば」と非常に似通った構造を有しています。その点も踏まえつつ、今回の記事ではこれまでの議論に基づいて、2202の問題点へと話題を膨らませていきたいと思います。

  • 2199と2202

 2199とは言うまでもありませんが、前々回の記事で取り上げたパート1をベースにした作品です。パート1と表現してきた『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)最大のキモは、冒頭で地球艦隊が壊滅することにあると述べました。

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  2199でも同様に、地球艦隊は冒頭で壊滅するのですが、この戦いに若干の改変が加えられています。それは、冥王星への地球艦隊の出撃が陽動作戦と位置付けられたことです。この作戦が「ヤマト計画」実行へ重要な役割を担っています。これは大きな改変です。何故ならば、ヤマトが「人類最後の希望」となるタイミングが変更されているということだからです。旧作では「壊滅」が一つのポイントとなっていましたが、2199は違います。「人類最後の希望」を起動させるために、冒頭地球艦隊は壊滅するのです。「人類最後の希望」という側面から見れば、旧作が「人類の希望から人類最後の希望へと至る過程」を一瞬でも描いているのに対し、2199は「人類最後の希望であること」を前提としていると言えます。どちらの作品にも「絶望しない」という沖田艦長のセリフがあるのですが、上記の改変によって、実は観客の目線から捉えたニュアンスが異なっています。旧作では絶望的な状況が観客に共有されているからこそこのセリフが映えるのですが、2199では「作戦成功」という、希望の残った状況が観客に共有されているのです。これは2199が「悲壮感が足りない」という批判を受けた一因であるかもしれませんね。

 ちなみに2199にはイズモ計画という新設定もありますが、彼等にとってもあくまでヤマトは「人類最後の希望」です。このように、2199においてもヤマトは常に「人類最後の希望」であり続けます。

 それに対して、2202はどうか。実はこちらは非常に真っ当に「さらば」を継承しています。

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  特に私が感銘を受けたのは、第五章に登場した「巡礼者」という表現です。「人類最後の希望」ではない、非常に私的な存在として旅をする「さらば」や2202の宇宙戦艦ヤマトを表現するにあたって、これほど的確な言葉はないのではないでしょうか。

 ここで浮かび上がってくるのは、私が上記の記事③で紹介した、”「さらば」にあったカタルシス的魅力”の2202における不在です。不在というよりも、それはまだ訪れていないのです。

 ではここで、2202の第五章を振り返ってみましょう。

 〇地球艦隊が白色彗星を迎え撃つ。

 〇波動砲も白色彗星に効果なし、重力波に飲まれる地球艦隊。

 〇アポロノーム、アンドロメダを救い出して轟沈。

 〇アンドロメダ以下、アポロノームを除くAAA級などが撤退に成功。

 もうお分かりでしょう。地球艦隊はまだ滅んでいません。パート1にせよ「さらば」にせよ、地球艦隊の壊滅あるいは全滅が、ヤマトが「人類最後の希望」に転ずるためのキーファクターになっています。つまり2202は未だ、「ねぇヤマトはどこ?」に連なる名シーンを発動させるだけの条件に辿り着いていないのです。これはすなわち、2202がまだ「最も盛り上がるポイント」を迎えていないことと同義なのです。

 2202に対する批判意見として「地球を背負って戦うという雰囲気がない」「盛り上がりに欠ける」というものが見られますが、それは至極当然のことだと言えますね。

  • 2202の問題点

 しかし、2202がまだ「さらばのカタルシス的魅力」を発動させていないと言う事実はむしろ、2202の問題点を浮き彫りにするものでもあります。それは、全26話、全7章という構造を自ら採用していながら、内容面で「さらば」と同じ構成を採ったことです。2年間に渡って観客と共に歩む作品で、2時間強の「さらば」と同じ終盤重視の構成を採用してしまえば、その道中で「盛り上がりに欠ける」と評されても仕方がありません。

 これはとても難しい問題で、じゃあ4話ごとに「さらば」のような盛り上がりを作ってしまえば良いかというとそれはあり得ません。そんなことをしてしまえば、もはやそれは「さらばのリメイク」ではないのですから。「さらばのリメイク」を標榜する以上、終盤をターニングポイントにヤマトが人類最後の希望に返り咲くという「さらば」最大の魅力を棄ててはなりません。

 やはり私が思うに、2202もまた劇場映画方式を採用すればよかったのではないでしょうか。2時間30分程度に要素を凝縮して「新しいさらば」を構築することも、福井さんには出来たことのような気がしてならないのです。そうすれば、一度映画館に行き2時間30分座っているだけで「さらば」を作品から感じることが出来るのです。2年間もの間、数か月ごとに映画館へ行き盛り上がりに欠ける映画を見るのとはわけが違います。その点、2202はもっと短ければ短いほど(単発劇場映画形式に近づけば近づくほど)、評価が高まったと言えるかもしれません。

  • おわりに

 今回はリメイクシリーズを「人類最後の希望」という概念に基づいて捉え直しました。2202が「盛り上がりに欠ける」などと感じておられる方の疑問を少しでも解決できればこれに勝る喜びはありません。

 予定を変更して「銀河の立ち位置」を独立した記事とすることにしました。次回においては「官製人類最後の希望」という概念を仮説的に銀河に適用して議論していきたいと考えています。ぜひよろしくお願いします。

次回:ヤマト2202と銀河:⑤銀河の立ち位置 - ymtetcのブログ