こんばんは。ymtetcです。
今日は、この記事の続編
ではありません。
こっちの続編です。
私は出渕さんが降りた場合でも「さらばとは異なった完全新作の続編」を作るべきだと考えていた
という部分を少し掘り下げつつ、色々と考えてみたいと思います。
まず初めに、福井さんが2202に寄せたメッセージをご覧ください。
「”愛”は決して無力でも、凶器に転じる危険な言葉でもない。
過酷な現実と折り合い、時に修正を促すための力
ヒューマニズムの極致として、我々ひとりひとりが強く意識していかなければならない。
それこそ生物学的な本能として与えられた力なのだということの再話。
自らが語り、自らが壊してしまったメッセージを再び語り得た時、
ヤマトの真の復権が為されるものと確信します。
宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち
命を込めて作っています。ご期待ください。」
「福井晴敏が、さらばのリメイクを作る」――
これは私にとって、新たな気づきの始まりでした。
その気づきは、
- 「ヤマトの続編」って、問い直される価値のあるものなんだ
- 「ヤマトの続編」って、問い直されないといけないんだ
というものです。
それまで、私の中で「ヤマトの続編の一般的評価」*1といえば、「さらばで終わっていればよかったのに。後は蛇足」というもの。それに加えて、ヤマト2以降のヤマト作品は「さらば」から大きな影響を受けて作られていたという認識もありました。
ここから逆算して、私が「さらばのリメイクはねぇよな」と考えていた理由を探ってみますと、
- 「さらば」は一度きりの映画だから
- 「さらば」をリメイクした時、そこに現れるのは「末期*2ヤマト作品の原点」に過ぎないから
このようにまとめられました。
まず一つ目の”「さらば」は一度きりの物語である”について説明します。
「さらば」は、「パート1の流れを引き継いだ続編」というよりは、パート1の積み重ねを活かす、すなわちパート1のお約束を裏切る、という作品でした*3。
- 「ヤマト」が、「アニメ(テレビまんが)」が、こんな映画を作るのか!
というサプライズ性が、この映画のキモだったと思います。
傑作ではありましたが、一方で衝撃作・問題作であったわけです。
とすれば、新作としてそのまま同じストーリーをなぞるだけではサプライズも生まれませんし*4、「同じことをやったの?」と呆れて、冷めてしまいます。
すなわち、リメイクするにあたっては到底、そのまま*5リメイクできるものではないのです。
では続いて、二つ目の”「さらば」をリメイクした時、そこに現れるのは「末期ヤマト作品」の原点に過ぎない”について説明します。
「さらば」については、このあたりの記事で考えてみています。
いわゆる「特攻」など、自己犠牲の強調が「さらば」以降のヤマトシリーズに顕著である、という指摘は各所でされていますね。「さらばで味をしめた」なんて言われることもあります。
また、上記記事では、「人類最後の希望」になるために「人間関係」がカギになっているという部分についても、考えてみています。
ヤマト2のラストで「さらば」とは異なる道を選んだヤマトシリーズではありましたが、以降の作品群は少なからず「さらば」の影響を受けていると言えるでしょう。
すなわち、「さらば」をそのままリメイクした時に目にするのは「新たなる旅立ち」~「復活篇」までの作品で見てきた自己犠牲の原点であり、「蛇足」のパート0なのです。そして、新たな衝撃を与えてくれないその映画は、ただ40年前の作品を追憶・紹介するという、極めて「閉じた」作品となってしまいます。
ここから、「さらばのリメイクはねぇよな」と私は考えていたのです。
さて、そんな私には
自らが語り、自らが壊してしまったメッセージを再び語り得た時、
ヤマトの真の復権が為されるものと確信します。
という言葉がどストライクに響きました。
この言葉に対しては、さまざま解釈はあると思いますが、私は
”自らが語り(=さらばにおける「愛」)、自らが壊してしまったメッセージ(=続編で繰り返された「愛」)”と解釈しています。
つまり、ヤマトシリーズは「さらば」で訴えかけた「愛」を、幾度となく公開される新作*6でも訴え続けることで、それを「壊してしまった」という解釈です。
このメッセージは(解釈が合っているかは微妙ですが)、「ヤマト新作」を考えるにあたって重要なことを暗示していると思います。
それは、
- 「さらば」にきちんと向き合わない限り、いつでも「蛇足」を生み出す可能性がある
ということ。
- あの作品がなぜ時代に受け入れられたのか?
- 「蛇足」はなぜ受け入れられなかったのか?
2199の続編にせよ、復活篇の続編にせよ、ヤマトシリーズの新作をこれから広げていこうとするタイミングにあっては、この問いを欠いてはならない*7。
そのことを、福井さんのメッセージは教えてくれたと思います。
パート1に向き合い、「さらば」へのアンチテーゼ*8
を最後に示した2199。
そのあとに続く作品として、さらに一歩踏み込んで「さらば」に向き合った作品を作るというのは、ヤマトシリーズの歴史を考える上で有益なアプローチだな、と思いました。
ヤマトの真の復権
とは、おそらく2202だけを見越した表現ではないでしょう。
パート1、そして「さらば」の成功が、後のヤマトシリーズを形作りました。
- 2199で、ヤマトシリーズは確かに復権した。
- しかしまだ、正面から向き合えたのはパート1だけ。同じくヒットし、シリーズ全体に多大な影響を与えた「さらば」にもきちんと向き合わないと、また復活篇のような「時代に受け入れられない」「オワコン」作品を作ってしまうかもしれない。
- 「時代に受け入れられない」「閉じた作品」ではなく、「時代に受け入れられる」「拒絶されない」「開いた作品」を作ることが、「ヤマトの真の復権」に繋がる。
- そのために、もう一つの大ヒット作「さらば」と正面から向き合う。
福井さんが目指した2202における「ヤマトの真の復権」とは、こういうことだったのでしょう。
以上、「教えてくれたこと」というよりは「解釈」という名の妄想だったような気も致しますが、「ヤマトの新作」を考えていく上では重要なことだと思います。
ヤマトシリーズはある意味、パート1とさらばの両輪で駆け抜けてきたシリーズなのかもしれませんね。
いまいち今晩中に話がまとまらなかったので、補足できそうだったら続編でも書きます。
*1:私自身は「ヤマトシリーズ全部認める」派です。
*2:かつて宮川さんは完結編のことを「末期」と呼んでいました
*3:だからこそ、実写版は終盤を「さらば」にするというトンデモな構成であっても一本の映画にすることが出来たのでしょう
*4:2202第五章の彗星もくもくのシーンとか、結末が分かっているので正直何の感情も湧いてきませんでした。
*5:2199も俯瞰的に見れば「そのまま」の系統に入ります
*6:もちろん、パート1に向き合っている2199本編は違いますが
*7:星巡る方舟は、バーガーを生き残らせることによって「さらば」へのアンチテーゼを示しました。後者の問いを踏まえた作劇と分類できます。
*8:これも一つの「向き合い」です