こんばんは。ymtetcです。
今日はこの記事の続きを考えていきます。まさか予告編が今日とは……明日また書きます。
目次
「物語として収まりが悪い」というデスラー批判
2199のデスラーに対する批判として、このような批判もあります。
つまり、2199の作品内でデスラーの行動原理が全て明らかにはされず、ヤマトの物語は完結しても、デスラーの物語は完結していないという批判です。第七章を観ても謎が残ってがっかりした……と。
しかしこれは、昨日の結論からその妥当性を導き出すことが出来ます。
すなわち、2199の作品内でデスラーの全てを明らかにしなかったことが、かえって2202が新たなデスラー像を創造する隙を与え、結果として「退廃的なデスラー→そうではないデスラー」といった旧作の筋書きを再現することに寄与した。
もしかしたら出渕さんは、ファンによって様々なデスラー像があることを念頭において、敢えて余地を残したのかもしれません。
2199のデスラーが2199でその物語を終えてしまえば、第一作のデスラー像以外のデスラーは、リメイクでは描かれないままに終わってしまいます。そこを敢えて、旧作同様に隙を残しておく。そして、次作では異なるデスラー像を描くことになるかもしれないので、そうできるように余地を残す。
それこそが、旧作の再現である、と。
これはほとんど私の推測に過ぎません。しかし、2199は敢えてコアシップを画面外へ吹き飛ばした。「もしかしたら」の続編のために、道を残しておいたことは間違いありません。
2202の「イスカンダル主義」
とはいえ、実は2199もデスラーの行動原理をきちんと本編中で語らせています。
星々を従え、この宇宙を救済に導くため
ただ一人、私の愛する人のために
2202の第五章『煉獄篇』において、デスラーの行動原理がひとつ明らかになりましたが、2199の劇中内で語られたこの行動原理については触れられていません。
デスラーがスターシャに思いを馳せるシーンと、「イスカンダル主義」の拡大を訴えた演説の回想シーンのみでした。
この「イスカンダル主義」という言葉は「この宇宙を救済に導く」という考え方を示している言葉だと考えます。つまり、完全無視している訳ではないのですが、2199の劇中内、それも嘘を吐くような場面ではない独白のようなシーンで語られた行動原理なのですから、重視する必要があるでしょう。
ただし、2202内においてもデスラーの物語は完結しておらず、例えば「あの時、私は何を滅ぼそうとしたのか」というデスラーの台詞などは未だに謎のままです。
ここは、第六章内で答えが出ているかもしれません。来週末の注目ポイントでもあります。
この記事を読んでくださっている人の中にはもう既に第六章をご覧になっている方もいらっしゃるかもしれないので、何だか気恥ずかしいですが。
結論
では、昨日今日のお話のまとめをしていきます。
出渕さんの好みに従っているとはいえ、そもそも第一作の退廃的なデスラーを描くことは、第一作のリメイクとしては妥当な選択だと言えるでしょう。
また、2199のデスラーは第一作目のデスラーとしての姿を再現しながら、旧作と同じように、二作目のデスラーとの間にギャップを作るような余地を生みだした。それ自体にも価値があると言えるのではないでしょうか。
つまり2199は、2199のデスラーを2199の枠内で完結させず、2199に続く作品の中で「新たなデスラーの物語」を構築できるような余地を残していたということ。
出渕さんとしては、あるいは自らの手で2199デスラーのスピンオフを作るとか、自らの手で続編を作るといった考えもあったと思います。しかし出渕さんなら、他者の手によって「自分とは異なるデスラー像」を描いた続編が作られる可能性もまた、考慮されていたように私は思います。
だからこそ2202が付け入ることの出来るような隙が生まれたのです。
そう推測してしまうほど、2199の「バランス感覚」は見事でした。
またこのことは、改めて「2199は続編を作る気がなかった」という話がデマであるということを示してくれているような気もします。