ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2202】なぜ副監督は監督以上に批判されるのか――ファンに対する姿勢

【お知らせ】2020年2月12日

改題しました。

(旧)「【ヤマト2202】なぜ副監督は必要以上に批判されるのか――ファンに対する姿勢」

(新)「【ヤマト2202】なぜ副監督は監督以上に批判されるのか――ファンに対する姿勢」

 

こんばんは。ymtetcです。

今日はふと考えたことを書いてみます。

目次

監督も副監督も、背負っている責任は同じ

まず前提として確認しておきたいことがあります。

もちろん、2202の画面を埋め尽くすのは小林メカですから、そこから副監督は叩かれているのだ、というのも正解です。

しかし、2202という作品に対して背負っている責任は監督も副監督も同じだという意見があります。

私もその意見に賛成します。さらに私は監督について「副監督の暴走を止められない」というよりも、むしろ「副監督最大の理解者なのでは」と推測したことさえあります*1

何故監督は叩かれず副監督は叩かれるのか

先ほどの「背負っている責任は同じ」を前提とした時、次に浮かんでくる疑問はこれです。

つまり、作品に対して責任を負っている立場であるにも関わらず、何故監督はそれほど叩かれず、副監督は叩かれるのか? という疑問。

ですが、その理由は単純。

態度の違いです。

今日は、この態度が具体的にどのように違うのか、2199の出渕総監督についても言及しながら、「ファンに対する姿勢」というひとつの側面から考えていきたいと思います。

※総監督、監督についてはインタビューを参考に、副監督についてはツイッターを参考にして考えていくこととします。

出渕総監督のファンに対する姿勢

「4年以上前にこの企画の話をいただいた時は、周りから『危ないからやめておけ』『火中の栗を拾うようなものだ』と言われた。しかしこの『火中の栗』は拾わなければならないと思い、4年間やってきた。100人いれば100人の『ヤマト』像がある。全部を満足させるのは不可能だが、だいたいの人が『これがヤマトであろう』と思う最小公倍数か最大公約数のようなレベルまでは持っていけたのではないか。本日は『ヤマト2199』に乗船いだたき、ありがとうございました」

朝日新聞デジタル:ヤマトとアホ毛と青い顔 - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能

出渕総監督のファンに対する姿勢は、ここに表れていると思います。語られているのはどちらかといえば作品に対する姿勢ですが、ここにはファンに対する姿勢も表れています。

羽原監督のファンに対する姿勢

羽原:
「2199」は僕も2本だけですが関わらせてもらい、苦労しているのも見てきました。同時に、スタッフの頑張りがフィルムに出た作品ですから、大変は大変です。でも、ここで引き受けずに他の人が作っているのを見て「やっぱりやればよかったな」と後悔したくないという思いはありましたから、力不足かもしれませんが、最後までがんばりたいと思っています。もちろん「2202」を見てご不満を抱いておられる方もいらっしゃると思いますし、その気持ちもすごくよく分かります。

G:
これは「自分なりのヤマト」がみなさんにあるからですよね。

羽原:
それはやっぱりあると思います。その部分も受け入れつつ、自分なりに「2202」を作っていきたいと思います。

ヤマトを愛する気持ちを徹底的に詰め込んだ「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」の羽原信義監督にインタビュー - GIGAZINE

羽原監督のファンに対する姿勢は、このコメントに表れています。2199の良さを改めて語り、敬意を示しつつ、そこを引き継いで行かない、行けない、という自分なりの姿勢を謙虚に語る姿は好印象を与えてくれます。

出渕総監督・羽原監督の共通点

ここから見えてくる両者の共通点は、「異論を認める」ことにあります。

ファンの中で多様な議論があり、それぞれのヤマト像があることを認識しているのです。

その上で、「最小公倍数か最大公約数」を目指した出渕総監督と、「受け入れつつ、自分なりに」作ることにした羽原監督、という違いが生まれているだけです。

副監督のファンに対する姿勢

さて、副監督はどうでしょうか。

副監督のツイッターで問題視されている行為はおおよそ、

  • リプライ
  • ブロック

のふたつと言ってもいいでしょう。もちろん、エゴサーチも我々からすれば「感じ悪い」のですが、エゴサーチ=悪ではありませんので、ここでは省いておきます。

さらに、前者の「リプライ」がいかなる行為なのか。細分化すると、

  • レッテル貼り
  • 拒絶

のふたつになるでしょうか。

「レッテル貼り」とは、例えば「見てない人」「業界関係者によるネガキャン」だと断定する行為にあたります。

また、「拒絶」とは、例えば「来なくていいです」「見なくていい」などの発言を指します。

ちなみに「ブロック」については、ツイッターの機能ですから、これを活用すること=悪だとは言いたくありません。

しかし、「ブロック」を「逃げた」あるいは「拒絶」と感じる人がいる限り、これは問題視され続けることです。

これらの行為を総括すれば、副監督のツイッター上における行為は、おおよそ

「異論を唱えるファンを拒絶する」

とまとめられるのではないでしょうか。

こうした異論を認めない態度こそが、副監督に対する批判を増長させているのです。

何故異論を認めないと炎上するのか

例えば『さらば宇宙戦艦ヤマト』で、ズォーダー大帝は「私は絶対」と言いました。

それに対して古代は「断じて違う」「お前は間違っている」と返します。

しかし、相手が出渕総監督や羽原監督のような人であったらどうでしょうか。

「私は絶対ではない。あなたの言うこともわかる」という人間に対して、「お前は間違っている!」と叫んだところで空回り。相手からは「そうですね。お気持ちはわかります」と返ってくるだけ。

異論を認める人は、意見の異なる人間に対して居場所を残しておいてくれるので、突き詰めれば、異論を唱える人も「総監督(監督)とはヤマトに対する考え方が違うんだな」という答えに辿り着きます。

作品が「自分と合わない」こと以外に、総監督(監督)を叩く理由がなくなってしまうのです。

一方で、副監督の異論を認めない姿勢(少なくとも、ツイッター上の振舞いからはそう読み取れる)は、異論を持つ人間に対して居場所を残してくれません。

異論を持つ人間が居場所を得るためには、居場所を与えようとしない人間が「間違っている」ことを訴え居場所を勝ち取らなければならないのです。ちょうど、『さらば』で古代進が行ったように。

黙ってしまえば、副監督こそが唯一の「正義」になってしまうからですね。

これは副監督の側から見れば「粘着質なアンチ」になってしまいます。

しかしそんな「粘着質」を煽り立てているのは、彼自身の「異論を認めない態度」なのかもしれません。

今や2202に対する批判は「作品が自分と合わないから」という感情を越えて、批判者にとっての「正義」を相手へぶつけるような批判に変わっているように感じます。

副監督の姿勢は、他ならぬ彼自身に不利益をもたらしている、と言えるのではないでしょうか。