ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2202】第六章はいかにして「ヤマト映画」となったか その1【ネタバレ含む】

こんばんは。ymtetcです。

今日から個人的に、ネタバレを解禁します。

といっても、本編の内容を羅列することはしません。「本編を観なくてもブログを読めば内容がわかる」=「観ずに批評できる」状態にはしたくありませんから。

基本的には「ネタバレを気にせず、第六章について考えていく」というスタンスを取っていきたいと思います。

目次

第六章はいかにして「映画」となったか――第五章までの2202

今日は、一昨日と昨日の記事で書いたことをベースに考えていきます。その記事では、第六章を構成する19話~22話が、各個独立しているというより、密接に結びついていた、と指摘しました。

一方、第五章までの2202は必ずしもそうではありませんでした。

2202の各話を、各話のテーマ別に整理してみると

「&」で結ばれている箇所は、物語として同一のテーマで連続して描かれている、と私が考える部分です。一方、「→」で結ばれているのは連続して描かれていない、と私が考える部分。

この整理が正しいかどうかは未だ検討の余地がありますが、ひとまずこれを棚上げして考えてみると、2202は同一テーマのストーリーが連続して描かれることはほとんどなく、章をまたいで伏線を回収するスタイルを採っていると考えられます。

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テレビ放送であればこのような描き方も機能するのですが、公開間隔が数か月、下手したら半年開く2202だと、観客にとっては次々と伏線が提示されるのみで回収されず、消化不良に陥りますし記憶違いだって起こり得ます。

例えば、評判の良かった第一章・第二章第5話までのストーリーには連続性がありました。ヤマトクルーにとっての悪役・地球政府と、それを補強する時間断層の闇、反乱覚悟の発進、アンドロメダとの対決、政治的背景による地球政府との対立解消で、この物語はいったん完結しました。

しかし第6話で11番惑星救出作戦が描かれて以降、テーマは毎回転々として複雑化していく。

第3話で初登場し、その後も繰り返し登場する桂木透子の概要が明かされるのは第12話で、その過去は第六章において明らかになりましたが、帰結は第六章を終えた現在においても未だ不明。彼女の存在が「しつこい」「うざい」と言われる所以です。

波動砲についても、第7話で使用したものの最終的な解決はせず、ヤマトクルーなりの結論が出るのは第13話。しかも中間の第9話において、よく分からない位置づけのままに波動砲が使用されています(こうして見ると、最も評判の悪かった第三章は伏線を提示するばかりで、回収がほとんど為されていないと言えます)。

このような複雑なシリーズ構成はもちろん計算づくの判断なのでしょうが、上手くいっているようには見えないのが現実ですよね。

第六章はいかにして「映画」となったか――第六章の構造

そして第六章は、こんな映画でした。

  • 第19話:「人間の艦・ヤマト」が「人間のエゴ」によって沈む。見た目はヤマトと似ていながら「非人間」的=「非ヤマト」的な存在である《銀河》に、ヤマトクルーが出会う。
  • 第20話:「非人間」であるガトランティスとズォーダーの極めて「人間」的な過去に、ヤマトクルーが出会う。
  • 第21話:「人間の艦・ヤマト」を救い出すため、「人間・山南修」は選択をする。戦闘の最中、「非人間」であるAIは非情なG計画の発動を提案。「人間・ヤマトクルー」との対立が決定的となる中、「非人間的」であった藤堂早紀は選択をする。
  • 第22話:「人間」であることを選んだ藤堂早紀。「ヤマト」を救い出した「人間」たちは、「人間の艦・ヤマト」に全てを託す。

このように、「人間」と「非人間」という軸を中心として、各話が連なっているのです。

これこそが、第六章を「第19話~第22話の集合体」である以上に、ひとつの「映画」たらしめていた要因だといえるでしょう。

斬新なアイデアではない

余談ですが、この「人間」と「非人間」の相克を描くというストーリーは、決して斬新なアイデアではありません。

例えば、

  • 歴史の古い人気シリーズ
  • 新たに著名な脚本家を迎え
  • 賛否両論

という共通点がある俗称「アニゴジ」にも、こんなストーリーがあるようです。

共存してきた異星人種族のビルサルドと人間たちとの亀裂が表面化してくる。ビルサルドのリーダー・ガルグの「ゴジラを倒すならば“ヒト”を超えた存在へ」という信念に対し、ハルオは「怪獣を倒すために自らも怪獣になってはいけない、“人”として打ち勝つべき」という信念を捨てられなかった。

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恐らく詳しい人から見れば、これ以外にも例はあるでしょう。

実績のある作家が同じようなテーマで作劇をしたということは、共通の問題意識・時代認識があると考えるのが妥当ですが、いずれにせよ言えることは、2202第六章の扱ったテーマは決して特別で斬新なものではなく、一般的なものであるということです。

しかし私は、一般的なテーマであっても、「ヤマト」の文脈の中でこれを用いたことに価値があるように思います。第六章において今後明らかにしていきたいテーマがまさにそれです。

今日は、いかにして「映画」となったかを考えてみました。明日あたり、いかにして「ヤマト」となったかを考えてみたいと思います。

イムリミットも迫っておりますので、今日はこのあたりで。