こんばんは。ymtetcです。
昨日の記事では、
- いかにして第六章は「映画」となったか
という問いを立てて考えていきました。
今日は
- いかにして第六章は「ヤマト」となったか
という問いを立てて、第六章の物語を独自解釈していきたいと思います。これで
- いかにして「ヤマト映画」となったか
という問いの答えがおおよそ分かるのではないかと踏んでいます。
注意点ですが、私もまだ劇場で2回、BDで数回しか観ていません。勘違い等ありましたら指摘して頂けると幸いです。
目次
- 第六章の物語
- 政治的圧力で肯定された旅
- 艦長代理・古代進
- 人間の艦《ヤマト》と機械の艦《銀河》
- 人間・山南修と《アンドロメダ改》
- 理想と現実の狭間で苦しむ人間達
- 第六章はいかにして「ヤマト」となったか──「愛」によって肯定された旅
第六章の物語
第六章の物語は、いかにして「ヤマト」となったのでしょうか。画面を見れば、そこは副監督メカが埋め尽くしています。到底「ヤマトらしい」映画には見えません。
そんな第六章が、「ヤマト」足り得た理由。それは、
- ヤマトを肯定する
ことにあったと考えています。
政治的圧力で肯定された旅
これまでの2202を少し振り返ってみましょう。興味深いのは、2202におけるヤマトの旅が、「愛」によって肯定されていなかったことです。
第五話でヤマトの旅が追認されるきっかけを作ったのは、バレル大使による政治的な圧力でした。
そもそもテレザートへの旅は、合理的な判断に基づく旅ではありません。地球上で、ヤマトクルーだけが同じ幻を見た。それも、非常に曖昧な。ヤマトクルーは、それを救難信号ととらえた。根拠はそれだけです。
ガミラス大使館による支援も、あくまで根拠は神話にあります。合理的な根拠があるわけではないのです。
艦長代理・古代進
真田は、この非合理的な旅を指揮する艦長代理として「合理を超えた判断ができる」古代進を指名します。
確かに、古代進は合理を超えた判断ができる人材でした。しかしそれ故に、「波動砲を使わない」という理想と「生きぬくために最強の武器を使う」という現実の間で揺さぶられ、苦しみます。
沖田艦長の代理として。現実の指揮官として。現実を生き抜くために、理想を違えなければならない艦長代理の苦しみを、ヤマトクルーの「全員で背負う」という結論によって救われるまで、古代はひとりで背負い続けました。
理想を大切にするという古代の不合理な「愛」を、全員で背負うという「愛」が救ったのです。
人間の艦《ヤマト》と機械の艦《銀河》
「軍規は言い出したらキリがないが、ここはヤマトだ」
島のこのセリフに代表されるように、2202のヤマトは徹底的に「人間の艦」(≒愛の艦)として描かれています。それは、「戦いは人間がするもの」といった旧作と同じ流れを汲んでいます。
愛という不合理な感情が時に艦を動かし、縛る。加藤の「愛」がヤマトを沈めたことも、この流れの一つなのです。
そして、沈んだヤマトの代わりに現れたのが《銀河》でした。
銀河は、見た目こそヤマトと似ていますが、その中身は正反対。合理的で、効率だけを重視。AIの判断が艦を動かし、縛る。「機械の艦」です。
第六章における主人公のひとりとなった《銀河》艦長・藤堂早紀もまた、《ヤマト》の古代とは正反対でした。彼女の母は、優しく、脆く、弱いが故に、自らを滅ぼしました。早紀は、現実の前に立たされた人間が弱いことを知っていました。だから心を捨てて人間でなくなってしまえば、現実を前にしても強くなれると考えていたのです。
人間・山南修と《アンドロメダ改》
第六章には、もう一人の主人公がいます。山南修です。山南は地球連邦軍艦隊総旗艦の艦長として、時間断層を活用した軍拡と、波動砲艦隊構想の一翼を担ってきました。
山南の理想は、ただ地球の復興のみにありました。そのために最善の選択をしてきたつもりだったのです。しかし激化する戦争の中で、結果的に自らが「終わりなき殺し合い」へ加担した、その責任を痛感。自らの命と引き換えにヤマトを救出することで、その責任を取ろうとします。
理想と現実の狭間で苦しむ人間達
山南を通じて第六章が描こうとしたのは、理想を抱きながらも、現実を前にして脆く、弱い人間の姿ではないでしょうか。
それはちょうど、早紀の母とも重ねられていたように思います。早紀は母に対するアンチテーゼから、人間の心を捨てようとしていました。
そんな彼らを救ったのが、「人間の艦・ヤマト」の艦長だったのです。
山南。死んで取れる責任などないぞ、山南。生きろ。生きて恥をかけ。どんな屈辱にまみれても、生き抜くんだ。人間は弱い。間違える。それがどうした。俺達は、機械じゃない。機械は恥を知らない。恥をかくのも、間違えるのも、全部人間の特権なんだ。
(土方竜)
土方は、山南の弱さを肯定。そして、「生きろ」と訴えたのです。人は間違う、恥をかく。だがそれは人の特権だ。人は、機械じゃない。と。
それは同時に、早紀の母に理解を示すことにも繋がりました。自らを命を絶つことも人の弱さ。だが、それもまた人なのだと。
ここに、早紀に影を落としてきた母という「人間」の生き様が肯定され、早紀は自ら「人間である」ことを選びます。
第六章はいかにして「ヤマト」となったか──「愛」によって肯定された旅
脆く、壊れやすい心を持っているからこそ、人は理想を描くことができる。それが足枷になるなら、心なんか捨ててしまえばいい。ずっと、そう思っていました。でも、分かったんです。この脆く壊れやすい心が、人を人たらしめている。移り気で不確かで、でも、どこかで筋を通さずにはいられない。それが機械に代えられない、人の本質。時に自分で自分を壊してしまうほどに強い、人間にだけ与えられた、力の源だって。私も、人間でありたい。どんな運命が待ち受けていようとも、最後の1秒まで。
(藤堂早紀)
この早紀のセリフこそ、第六章の結論であると言ってよいでしょう。
「人間の弱さ」を「人間にだけ与えられた、力の源だ」と言い、「人間が人間であること」を肯定する。
これは「人間」を肯定すると同時に、今作における「ヤマト」の旅を「愛」から肯定することに繋がります。
それこそが第六章に潜む「ヤマトらしさ」の正体なのではないでしょうか。
確かに「人間」か「非人間」かという構図は、現代の作品とすればありきたりなアイデアです。
しかし、この構図でもって「人間」と「愛」を肯定することは、旧作をも含んだ全ての「ヤマト」を、この21世紀から肯定することにも繋がると考えます。
福井さんの問題意識は、『さらば』だけに留まりません。愛を語った『さらば』のみならず、自らそのテーマを壊した『さらば』以降の作品さえも見据えています。この第六章は、そんな問題意識に対する2202なりの答えであると、解釈できるのかもしれません。