こんばんは。ymtetcです。
「第六章はいかにして~」と題して、これまで二つの記事を書きました。
前回までの記事で問いの答えは私なりに出したのですが、他の考え方を追加してみたいと思いましたので、今回この記事を書くに至りました。
目次
第六章はいかにして「ヤマト映画」となったか:前二回
その1の内容は、この一文にまとめられています。
「人間」と「非人間」という軸を中心として、各話が連なっているのです。
これこそが、第六章を「第19話~第22話の集合体」である以上に、ひとつの「映画」たらしめていた要因だといえるでしょう。
その2の内容は、こんな感じです。
「人間の弱さ」を「人間にだけ与えられた、力の源だ」と言い、「人間が人間であること」を肯定する。
これは「人間」を肯定すると同時に、今作における「ヤマト」の旅を「愛」から肯定することに繋がります。
それこそが第六章に潜む「ヤマトらしさ」の正体なのではないでしょうか。
このように、その1では「いかにして映画となったか」、その2では「いかにしてヤマトらしくなったか」という問いをそれぞれ立てて書きました。
今日は、その1の「いかにして映画となったか」の答え「各話が連なっている」という部分について、補強する考え方を追加してみます。
藤堂早紀と加藤三郎
次々と過去記事を貼り付けてしまっていますが、今日の話に新しい考え方を追加するきっかけとなったのは、昨日のこの記事です。
愛の宣伝会議を要約するつもりで書き始めた記事が、いきなり降ってきたアイデアから加藤の話に転じるという、書き手にとっては一番面白い経緯を辿った記事でした。
大好きな親の自殺が、子にとってどれほど残酷なことか。早紀のドラマは、それをも描いているのではないでしょうか。
第六章には「親に死なれた子供」藤堂早紀と、「死のうとする親」加藤三郎が出てきます。
しかもこの二人は、縁あってか同じ艦《銀河》に乗りました。そして、「自殺行為」とも言われる作戦ブラックバードに加藤は志願し、早紀はそれを承認する。加藤が作戦宙域からの撤退を完了する前に、早紀はAIの判断に従ってコスモリバースを発動させる。
人命よりも、作戦行動を優先。極端な言い方をすれば、第19話時点で早紀(と銀河クルー)は加藤に対して「死んでもいい」と思っているわけです。
島「正気の沙汰じゃない……」
神崎「正気で戦争に勝てますか」
このセリフに代表されるように。
こう見ると、第19話は「加藤三郎のドラマ」と「藤堂早紀のドラマ」が結合して成り立っていることが分かります。第19話で提起されたこのドラマは、第21話Aパートにおいて、早紀の「親に死なれた子供」としての過去が明かされることで、その構造がはっきりとしました。
山南と土方
山南は現実を見て、最善の選択をしてきたつもりでした。それでも、多くの犠牲を払い、親友の安田まで失い、地球は未だ危機に晒されている。さらに、目の前でヤマトが沈んだ。「土方さん」と共に、「沖田さん」の艦が。
「これ以上失いたくない」。山南には、そんな気持ちもあったのではないでしょうか。
ここに「ヤマトを救おうとする山南」というドラマが生じます。このドラマは第19話の冒頭で提起され、第21話Aパートに登場する「集合写真」で更に補強されました。
21話Bパート
「藤堂早紀と加藤三郎のドラマ」と「山南修とヤマトのドラマ」は、このように別々に登場してきたドラマでした。
しかしこれらは、第21話Bパートという一つのドラマに集約されます。
始まりは、ヤマト発見の報でした。山南は全艦艇に対し、ヤマト救出への協力を要請します。真田が銀河による協力を具申すると、AIはそれを否決。
真田「お前には聞いていない!」
真田はAIを一喝し、可否を判断するよう早紀に迫ります。
同じ頃、山南は自らの命と引き換えに重力源を破壊して、ヤマトを救出すると決めました。
そこへ、通信可能域へと脱出しながら、尚も重力源に囚われているヤマトから通信が入ります。声の主は、土方。土方は言います。
「死んで取れる責任などない」
「生きろ」
「恥をかけ」
「それが人間の特権だ」
と。
ここまでは、「第六章はいかにして~」でも言及した部分でした。また、この言葉が結果的に加藤にも向けられていたことは、昨日の記事で考えました。
しかし今日、改めて考えてみたいのは、このシーンで何が起こったのかということです。
結合するドラマたち
土方の言葉を聞き、早紀はAIを破壊します。AIではなく、早紀の判断で、銀河は山南を支援することになりました。
ここで、早紀のドラマは完結。早紀のドラマはそのまま、「ヤマトを救う」山南のドラマと結びつきます。銀河はコスモリバースを犠牲にして、アンドロメダの波動砲を増幅させます。
結果、山南は「ヤマトを救う」ことに成功するのです。ここで、山南のドラマは完結する。
しかし、それだけではありませんでした。
沈みゆくアンドロメダから山南を救い出したのは、加藤でした。ここで、加藤のドラマは山南のドラマと結びついたんです。
「死ぬな」
「生きろ」
という一つのテーマの下に、バラバラだった三つのドラマが集約される。
そして、皆にとって大切だった、それなのに失いかけていた存在──他でもない「宇宙戦艦ヤマト」──が救われる。
このような複数のドラマの結合と、終着点としての「宇宙戦艦ヤマト」。
この組み立てこそ、第六章が「ヤマト映画」たる所以なのではないでしょうか。