こんばんは。ymtetcです。
ヤマト2202がどのような作品で、どういった点が良くてどういった点が悪くて……それは何故か。当ブログはそんな問いについて考えてきた、そしてこれからも考えていくのですが、今日はさらに三つの仮説を追加してみようと思います。
コメント返信の件ですが初歩的なミスをやらかしたのでこちらを読んでください*1
目次
ヤマト2202は群像劇ではない?
これは先日「ガンダム的操作」の記事を書いたときに、コメント欄で頂いたものから考えたものです。
ヤマト2202が群像劇である、という意見ももちろんあります。
アフレコの話題では「雪の出番はありますか!? と毎回ドキドキするところから始ります。台本来た! 出番あった、ひと言ふた言、セリフ3つある! というような感じでした」「大群像劇なので、雪と言えども存在を示すのが大変なので、がんばってください」と、元祖ヒロインとは思えない状況と気持ちを告白。
ただ、2202のここまでを観ていると、2199と比べて古代進が主人公主人公しているという良い点も含めて「2202は群像劇だ!」と呼べるかと言うと疑問符が残るわけです。
とすれば、コメント欄で頂いたような「ヤマトは群像劇であるべきだ」という批判が出るのも当然かと思います。ただ、『さらば宇宙戦艦ヤマト』が群像劇かというと、これまた少し疑問が残るんですけどね。
副監督のツイート
さて、このヤマト2202の作劇方法について、副監督はこんなことを言っています。
誰か評論家が正確に分析したらわかると思うけど。これは群像劇でない。羽原が莫大な経験値から編み出した新しい熱い演出方法なのよ。敢えて言えば萌えアニメに近い
— 小林誠 2220 (@makomako713) February 16, 2018
「羽原(監督)が編みだした新しい演出方法」という部分は誇張の可能性があるにせよ、スタッフとしての副監督は、少なくとも2202を群像劇として作っているわけではないようです。その新しい演出方法とは一体何なのか。
副監督は他のツイートで「登場人物を絞り込んだ群像劇」という言い方をしています*3。ここから考えてみると、2202の作劇方法は言わば「群像劇の亜種」とでも言えるのかもしれません。
「萌えアニメに近い」というのも大きなヒントになりそうです。最近コピペ騒ぎで話題のWikipedia先生の定義によると、「萌えアニメ」は
アニメのジャンルの一つであり[1]、ストーリーよりもキャラクターを重視し、個性の異なる複数のキャラクターたちの魅力で作品を牽引し[2]、視聴者の萌えを刺激するようなアニメを指す。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%8C%E3%81%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1)
だそうです。
考えてみる
ここから何となく考えてみますと、副監督から見た2202の作劇は
- 「ヤマト」という箱を作る(グランドホテル=群像劇的舞台設定)
- 登場人物を絞る
- 個性の異なる登場人物の魅力で作品を牽引する(「萌えアニメに近い」)
という三点に特徴づけられると考えられます。
この三点から「(厳密には)群像劇ではない」と述べているのではないでしょうか。
ただ、登場人物を絞ったからといって、それが「群像劇ではない」「新しい演出方法」とまで呼べるのかはやや疑問です。「群像劇の亜種」と先ほど表現しましたが、要はそれって「群像劇」の一つなんですよね。
この部分は、以前の記事*4で書いたような「監督・副監督としての力量」に大きく関わる論点でもあります。今後の副監督の言動にも注目すると同時に、時間をかけて考えていくべき問題でもありそうです。
ちなみに、ヤマト関係で評論家というと明治大学大学院 特任教授の氷川竜介さんの名前が浮かんできます。どうかなと思うのでリンクを貼るのは避けますが、『宇宙戦艦ヤマト』のドラマ構造について解説した記事をネット上に公開されており(初出は同人誌)、ヤマトファンにとっては必読かと思います。是非検索をかけてみてください。
*1:返信を書いたUSBを持って帰って来るのを忘れました(笑)。明日には返信できるかと思います。
*2:2199は紛れもない群像劇だったので「その続編だからそうなんだろう」くらいの認識を持っていらっしゃる可能性もありますが
*3:小林誠 2220 on Twitter: "まぁ覚悟はしてましたから。でもライトユーザー向けのコンセプトと登場人物を絞りこんだ群像劇という仕切りと演出はうまくいってると思ってます。最後までお楽しみください。… "