ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

副監督叩きはヤマトファンのすることなのか?

こんばんは。ymtetcです。

以下に書くのはあくまで私の個人的な話ではありますが、記事のタイトルに掲げた問いは、私を含めた副監督を叩く全ての人が自己を省みる際に問いかけるべき問いだと考えています。

目次

これまでのymtetc

あまりPV数や読者数について言及したことはありませんでしたが、ヤマト2202第六章の人気に便乗して、当ブログも以前より多くの方に目にしていただけるようになりました。

第六章の出来が概ね私の満足する所であったこともあり、第六章公開以後は2202批判や副監督批判の記事も減っていますが、以前はそのような記事もたくさん書きました*1

何故最近、副監督批判の記事が減っているかと言いますと、まさしく今日のタイトルに掲げた問題意識があったからに他なりません。果たして、副監督を叩くというのは、ヤマトファンのすることなのでしょうか? ヤマトファンだと自分は思っていても、他者から見れば、それは単なる副監督アンチに過ぎないのではないでしょうか?

今日は、このことについて、少し自戒しつつ、ある種の正当化を行いたいと思います。

当ブログのコメント欄

当ブログが副監督擁護・批判の記事をいくつか書いていることから、これまでも、多くの副監督批判のコメントをいただきました。今日これから考えていく「副監督を叩くヤマトファン」と、「副監督アンチ」の線引きに基づけば、これまで当ブログに寄せていただいたコメントは、全てヤマトファンとしてのコメントであったと解釈できます。

目的・理由と手段

「副監督を叩くヤマトファン」と、「副監督アンチ」の違いはどこにあると言えるでしょうか。今日私が考えてみたのは、目的・理由と手段の違いです。

さて、副監督の行為を叩くとしましょう。

・それは、何のためですか?

この問いは、人を問わずして答えはひとつ。「自分のため」です。

まずここは強調しておきたいと思います。何か客観的な正義や、意義があるわけではありません。主観的な正義、意義はあり得ますが、結局は自分のため。誰かを守るためであろうとも、この局面においては最終的に自分のために、副監督を叩くこととなります。

・それは、何故ですか?

ここが重要です。何故、副監督を叩くのでしょうか。

その理由を、皆さんも自分に訊いてみてください。

私は自分を正当化したいので、こう答えます。

「ヤマトに不利益があるから」。

副監督のデザインは、ヤマトと相性が悪い。

とりわけ、2199の続編にはそぐわない。

副監督のツイッター上の行為は、ヤマトファンを萎縮させる。

とりわけ、2199あるいは2202からヤマトに興味をもった人を萎縮させる。

副監督叩きを助長させ、「ヤマト2202は駄作」という口コミを増幅させる。

このように「ヤマトに不利益があるから」、私は副監督を批判した。

言うまでもなく、これは自分を正当化するための答えです。

しかし、この「ヤマトに不利益があるから」叩くという意識を持っている限り、私はヤマトファンであり続けることができます。何故なら、基準は「ヤマト」にあるからです。「ヤマト」に害のない所で、小林誠氏がいかなるデザインを発表しようとも、いかなる言動をとろうとも、私はヤマトファンであり続けたいので、これは批判できない。このように、副監督批判に一定の制限がかけられます。

では、「副監督アンチ」となってしまった人は、なんという答えが浮かんでくるでしょうか。

それは「副監督が嫌いだから」という答えです。

「副監督が嫌いだから」という理由が第一義的になってしまえば、その副監督批判に「ヤマト」は最早関係ありません。そして行きつくところでは、副監督のデザイン・言動すべてが嫌いになり、批判されるべきだという文脈でしかそれを読み取ることができなくなり、とめどなく憎悪が溢れる、という単なる「副監督アンチ」と化してしまいます。

そこに、「ヤマト」という一種の大義は存在しないのです。

無論、「副監督アンチ」よりも「副監督を叩くヤマトファン」の方が優れているということではありませんが、大義が存在しないこと、副監督が嫌いという以上に動機がないことから、最早それは、「ヤマト」と距離を置いた存在になってしまいます。

白黒ではない

これらの線引きは、白黒はっきりと分かれているわけではありません。

この線引きを今日考えてみた目的は、私を含めた副監督を叩く自称「ヤマトファン」が、単なる「副監督アンチ」になっていないか? と、自分を省みることにあります。

ですから、私も含めて、副監督を叩く自称「ヤマトファン」は、考えてみなければならないでしょう。

「ヤマトのため」という大義を掲げていながら、「副監督が嫌い」という自分の憎悪を吐き出しただけで、「ヤマトのため」という大義を骨抜きにしてはいまいか。

本当にその副監督批判は、「ヤマトのため」なのか。

「ヤマトのため」という問題意識を、その批判に込められているか。

自分自身は、「副監督が嫌い」という比較的浅い憎悪より、深い所にある「ヤマト」という己の感情の原点を忘れないでいるか。

説法みたいな言い方になりますが、「ヤマト」というのは我々がただ生きるために必要なものではなく、我々がよく生きるために必要なものです。私たちにとって「ヤマト」とは、「人生と同じ」であっても「人生」ではない。

社会人、学生。親、子。私たちの多くは、ヤマトでご飯を食べているわけではありません。だからこそ、大好きなヤマトとの向き合い方はいつの間にか雑になりがちです。もしその向き合い方の極致として、もしも「ヤマトファン」ではなくなってしまうとすれば、とても悲しいことではないでしょうか。

*1:副監督関連記事を整理する(その1) - ymtetcのブログ副監督関連記事を整理する(その2) - ymtetcのブログ副監督関連記事を整理する(その3) - ymtetcのブログ副監督関連記事を整理する(その4) - ymtetcのブログ副監督関連記事を整理する(その5) - ymtetcのブログ/比較的擁護しつつも一部で激しい批判をしたり、という、そんな過去の論調を窺い知ることができます。本記事にこのシリーズのタグをつけておりますので、適宜ご利用ください。