こんばんは。ymtetcです。
バランスを取ってます。中立です。
こんなスタンスは、「傲慢」に転じかねません。論争の両極の間に立つ「中立」を自称しながら、内実は両極の上に立ち、見下そうとする姿勢。バランス、中立は有力な一つの選択肢ですが、間違えれば傲慢に転ずるのが難しい所です。
経緯
今日この記事を書こうと思ったのは、このコメントを頂いたからです。
おそらくほぼ全員が「ヤマトのため」と答えるはずです。どれだけ悪質なことをしていても、この一言で全て正当化できてしまうからです。
(Nzawa 様)
ここで指摘して頂いたのは、「ヤマトのため」というフレーズがアンチ活動の正当化に繋がるのではという懸念です。これは確かにその通りだと思います。
そして私も、それを自覚しながら書いていましたが、この懸念を消し去るような方向に上手く持っていけなかった。また一方で私がもう一つ感じていたのは、これが「副監督批判をするヤマトファンに対する批判」すなわち「アンチ批判」に繋がるのではないかという懸念です。これも自覚しながら書いていましたが、抑制する方向に持っていけた自信はありません。
ならば、この時に書いた記事の内容をそのままひっくり返せば、「中立」ではないにせよ、両極併記という意味で「バランス」が取れるのではないか? そう考えました。
では、「副監督を褒めるヤマトファン」と、「副監督ファン」の違いはどこにあると言えるでしょうか。
例によって、ひとつ考えてみましょう。
さて、副監督を褒めるとします。
それは、いつでしょうかか?
いつ、どんな時に副監督を褒めるのでしょうか。
仮に私が副監督を褒めるとして、その条件を設定してみますと
「『ヤマト』の文脈内で、彼が良い仕事をした時」
に、副監督を褒めることになると思います。
いわば「私のヤマト観」の範囲内で、ということです。つまり、仮に良い仕事であっても「私のヤマト観」に反せば褒められません。さらにいえば、「ヤマト」の外で彼がいかなる仕事をしようが、私はそれを褒めません。
何故ならば、私はヤマトファンであって小林誠ファンではないからです。
今日述べたいことは、これに集約されます。
無論、ヤマトファンと小林誠ファンを兼ねることはできます。しかし、ヤマトファンであるために、小林誠ファンである必要はありません。
ヤマトファンにとって必要なことは、ヤマトを愛することだけ。それ故に「自らのヤマト観」に反する存在を排除しようとして批判することもまた、ヤマトファンの営みの一つであると言えます。逆に言えば、ヤマトのデザイナーとして、あるいはヤマトのメカとして彼や彼のメカを褒めることはあっても、彼を彼として「ヤマトファンとして」褒めることはないということ。
「副監督は叩かれてるけど2202を観ていて私はそんなに悪いと思わない」というのと、「副監督は素晴らしいのに何故叩かれるのだろう」というのは、同じ副監督擁護に見えて、厳密に言えば違います。
大事なのは、基準をどこに置くか。2202における彼の仕事をみて「良い仕事だ」と思うことと、小林誠の仕事を見て「素晴らしい」と思うことは違う。後者は小林誠ファンの行動です。
今日は短くなりましたが、こうして見ると、副監督を叩くにせよ褒めるにせよ、ヤマトファンにとって必要なのは「ヤマト」を基準に評価を下すことだと言えます。
この考え方は、これらの過去記事と同じ所に帰結するものであり、
また、この記事
と同じように、ヤマトファンと小林誠ファンを区別する考え方と同じ流れにもあります。ただ最後に、ヤマトファンと小林誠ファンを兼ねることも可能であるということは、改めて強調しておきたいと思います。