ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2199】方舟が「ヤマト」である意味はあったのか

こんばんは。ymtetcです*1

一日30分弱だけアニメを観る時間を設定しているのですが、最近2202を22話まで観終わったので、遡って方舟をちまちま観ています。今日はそこで考えたことを書いてみます。

目次

「ヤマト的権威」

映画『星巡る方舟』は、リメイク作品ではありません。オマージュには溢れていますが、あくまで完全新作として成立したひとつの映画でした。テーマは「互いに憎しみあった異星人とも、分かり合える」。いわば2199の延長戦として、この映画はありました。

一方、新たなテーマが与えられなかったが故に、方舟には「ヤマト的権威」がありません。

「ヤマト的権威」とは、「新作が有する要素のうち、旧作に由来するもの」を指します。

今回着目するのは、「作品テーマ」における「権威」です。2199は旧作の「愛し合うべきだった」に対して「理解し合える(=愛し合える)」というテーマを提示しました。ちなみに方舟の後継作である2202は旧作『さらば』以降、絶対化されてきた「愛」そのものに疑問を投げかけています。どちらも「ヤマト的権威」に基づくテーマ設定を行っていることが分かります。

振り返ってみれば、方舟にはそれがありません。「理解し合える」は2199のテーマであり、それをそのまま再話することに「ヤマト的権威」はないわけです。共同戦線は『新たなる』、主だった戦闘シーンは『ヤマト2』のオマージュなので、ここに「ヤマト的権威」はありますが、ことに「理解し合える」ドラマの根幹を成すべき「大和ホテル」には「ヤマト的権威」がありません。故に私は「この話、『ヤマト』である意味はあったの?」という疑問に行き着きました。

正直、疑問が残ります。

方舟は「明日への希望」

しかし、仮に「ヤマトである意味がなかった」とした時、方舟にはむしろポジティブな意義が生まれます。

そもそも、2199とはいかなる作品だったか。2199の担った役割には色々とありますが、その一つとして「ヤマトを現代アニメとして蘇らせる」というものがあります。設定の「現代的」ディテールアップはその一環と位置付けられるわけです。

とすれば「ヤマト的権威」などという過去の遺物に囚われる必要は、厳密に言えば存在しないのではないでしょうか。

『さらば』から復活篇に至る「続編」がヤマトを堕落させたとすれば、『さらば』はヤマト凋落の原点である──という話は何度かここでしてきましたね。

「ヤマト的権威」の大半は『さらば』以降に形成されたものです。『さらば』以降の「ヤマト的権威」は、ヤマトを凋落から「新作アニメ」として復活させる任務を背負った2199にとって、否定や部分肯定はすれど、全面肯定する存在ではない。

すなわち方舟は、2199の「ヤマト的権威」=「愛し合える」を引き継ぎ、新たな物語を紡ぐだけでよかった。

あるいは、方舟をもって2199の「ヤマト的権威」ドラマを終結させ(「真の結末」)、2199と方舟の続編には、「2199的権威」のみを与える。そうすれば、ヤマトシリーズは(第一作の権威を背負った)2199のみを新たな「権威」として、『さらば』以降の「凋落」とは異なる、新たなステージへと突入する。

「『さらば』以降のヤマトに囚われなかった」あるいは「否定した」方舟はむしろ、『さらば』以降の凋落を繰り返さないために、「新作アニメ」としての一歩を踏み出そうとしていた「ポスト2199のヤマトシリーズ」にとって「明日への希望」と位置付けられる作品であったと言えるかもしれませんね。

*1:(通りすがり様)事情あって先にコメントを返信させていただきました。<副監督ツイッターは「会員制メールマガジン」? - ymtetcのブログ>よろしくお願いします。