こんばんは。ymtetcです。
恐らく皆様が読んだことのないような記事でしょうが、1年弱前、初期の初期に私はこんな記事を書いていました。
私的宇宙戦艦ヤマト2202論 その2 ―2199と復活篇の意外な関係!?― - ymtetcのブログ
復活篇DC版が試金石となって、2199に影響を及ぼした
復活篇と2199は、制作時期が少し重なっていたこともあって、もとより無関係な作品ではありません。今日は復活篇の公開日らしいので、そんな話をしてみましょう。
昨日の記事では2199のスタンスについても言及しているのですが、
音響、メカのビジュアル、シーンなど「変えてはならない部分」=点は残す
キャラデザ、声優、各種設定、ストーリーを作り変える=線を変える
2199は、「変えてはいけないところ」を残して、「変えなければならないところ」を変えた作品であると言えます。
興味深いのは、「変えてはいけないところ」である音響(効果音と音楽)とメカが、復活篇では変えられていること。そして「変えなければならないところ」である設定やストーリーの古さは変えられていないということです。
ここでは、復活篇と2199が対照的になっています。だから復活篇は比較的多くのファンに「拒絶」され、2199は比較的多くのファンに「受容」された。
私はここで納得してしまいそうになりました(笑)。「だから2199はすごかったんだ!」と。
いやいや、そうじゃありません。
「先行した復活篇」と、「復活篇後に登場した2199」という、純然たる事実があります。
結論的に言うならば、復活篇こそが「変えてはいけない部分」と「変えなければならない部分」を浮き彫りにしてくれた、と考えられるのではないでしょうか。
言い換えれば、復活篇が反面教師となって制作中途の2199に影響を与え、それ故に2199は多くのファンに受容される作品となった。
さらに、こんなこともありました。
ポジティブな内容なので副監督のツイッターを引用してみると、どうやら出渕さんは、復活篇が公開され「結果」が出る前から、復活篇の問題点に気づいていたようなのです。
「何をやりたいのか明確でない」という言葉が意味するのは、決して「復活篇にテーマがない」ということではありません。復活篇にも、描きたいことはありました。しかしそれが、あまりにも多く、バラバラでした。
古代とヤマトのドラマ、古代親子のドラマ、新ヤマトクルーのドラマ(世代交代含む)、ヤマトとゴルイのドラマ、古代と雪のドラマ、古代とパスカル、大村の死、佐渡と真田の決断……など、とにかく「描きたい」もの、「訴えたい」ことはたくさんあってもバラバラで、それを貫くものがないのです。あるとすれば、定義も深慮もない、「愛」という空虚な言葉だけ。だから「何をやりたいのか明確でない」。
これは、まさに復活篇の抱えた問題を鋭く突いた指摘だと言えます。
一方、2199はどうか。2199のドラマは、シュルツの娘にせよ、玲とメルダのキャットファイトにせよ、ファーストコンタクト問題にせよ、しばしば批判にさらされた「ガミラス贔屓」にせよ、最終的には全て「相互理解」という一つのテーマに集約されます。実は、2199で「丸投げ」と言われた部分、雪の記憶喪失やデスラーの真意などは、この「相互理解」と大した関係がありません。それほど、統一的なテーマのもとに、物語の要素を取捨選択していったことになります*1
復活篇を見て反面教師にした、というよりは、出渕さんが復活篇の問題点に気づいていた、というエピソードではありますが、両者の関係を語る上で興味深い証言だと思います。
復活篇は2199にとっての反面教師だった、というのは、紹介した過去記事で既に書きました。しかし今日はそれを、新たな観点より書いてみました。復活篇は、「変えてはならない部分」「変えなければならない部分」を浮き彫りにしたと言えるかもしれませんね。
やはり今後のヤマトシリーズに求められるのは、「復活篇を繰り返さない」ことでしょう。それは、仮に長年来の噂である「復活篇第二部」を制作することになっても、同様に求められる意識です。
一般化して言えば、そもそも我々には「過去を絶対化しない」「常に問い直す」ことが求められています。それこそが、現在とその先の未来を作ることに繋がるからです。
*1:ちなみに2202もそうです。2202は曖昧で空虚な、復活篇までのヤマトを支配していた「愛」に着目して、「愛」を問い直すことに全てのドラマを費やしています。