ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト】開かれた新作、閉じていくシリーズ

こんばんは。ymtetcです。

昨年の2月にこのブログを始め、春夏秋冬という一年のスケジュールの中で、それなりに毎日記事を書いてきました。そして今、初めての12月に直面しています。

そんなに長時間かけて頑張って書いているわけではありませんし、コメントも返信を待っていただいている現在ですから*1、作業自体はそれほど負担ではありません。

ただ、忙しくなってきたということでどうしても逃れられない壁──アイデアが浮かばないという課題──に直面しています。

最近、それが負担に転じかねない気配を自分の中で感じました。

ということで、ちょっとだけコンセプトを変更してみます。

 「一日一回、宇宙戦艦ヤマトを考えるブログ」。

イデアは浮かんだり、消えたり、正解だったり、間違っていたり。それでもその日、何かを考えることができたら。そんな感じの空間にしたいなと思います。

では、今日は昨日の続きを考えていきます。

閉じていくシリーズと開かれた新作

昨日の記事では、こんなことを考えました。

 

世の中には「自己の世界観」に閉じていく作品と、社会に開かれた作品の二つがある。

 

特に『エヴァンゲリオン』のようにシリーズ化していくと、固定客が生まれ、むしろ「自己の世界観」(アイデンティティ)に閉じていくことを求められるようにもなります。

ただそれは、社会に開かれた作品とは違い、既存の固定客以上に広まっていく機会が少ないのも事実です。

その点、リビルドを実行し再び社会に開かれた「序」「破」が大ヒット(固定客以外も動員)し、従来の世界観へと回帰した*2「Q」が賛否両論となったのは、「序」「破」が固定客以外の動員を実現したことから、当然であったとも言えるでしょう。

従来の『エヴァンゲリオン』では考えられないようなハッピーエンド(公開時はそう解釈できた)を描いた「破」が一部のファンから戸惑いをもって迎えられたのは、『君の名は。』のラストシーンに対して新海誠作品のファンが(ポジティブにせよ、ネガティブにせよ)戸惑ったのと同じ構図を持っています。

 

さて、宇宙戦艦ヤマトではどうだったでしょうか。

宇宙戦艦ヤマトで社会現象と言えば、直ちに想起されるのは第一作と『さらば』です。

そこから逆算して考えなくとも、この二作品は社会に開かれた作品でした。

宇宙戦艦ヤマトという作品は、第一作で「グランドホテル×ロードムービー形式*3」という一つのヤマト・スタイルを確立し、第二作である『さらば』で、愛というもう一つのヤマト・スタイルを確立しました。

第三作である『ヤマト2』以降の作品は、この大きな二つのスタイルからは外れていません。愛を描いても自己犠牲は否定してみたり、などと、もちろん強弱はありますが。シリーズ化したヤマト作品は、徐々に第一作と第二作の世界観に閉じていってしまったのです。

これもまた宇宙戦艦ヤマト衰退の一つの要因に思えてなりませんが、ある意味これは、シリーズ作品の宿命でもあります。

ここからリメイクシリーズのことも考えられそうなので、また書いてみようと思います。

*1:いつもコメントありがとうございます。

*2:そもそも、旧テレビ版も終盤にきて閉じていく作品なので、リビルド版の展開も旧テレビ版を踏襲した展開ではある

*3:氷川竜介さんの分析より