こんばんは。ymtetcです。
先日投稿したこの記事では、ヤマトシリーズは第一作と第二作で「開」かれ、第三作以降は「閉」じていったと結論付けました。
今日は、これをリメイクに当てはめてみたいと思います。
まず、ヤマト2199はどうだったか。
2199を一つの新作アニメと捉えれば、これはシリーズの第一作と言ってもいいでしょう。すなわち、もとより無条件で「開」かれた作品なのです。
とはいえ、原作を有したリメイク作品なのですから、少し立ち入って検討してみる必要があるでしょう。
しかしながら、立ち入ってみても2199は「開」かれている作風だと言えます。
作品のテーマは「相互理解」でした。「相互理解」とは「理解し合える」ということであり、さらに言い換えれば「愛し合える」ということでもあります。
この2199のテーマは、旧作の「権威」*1を活かして設定された新しいテーマです。
具体的には、旧作の「愛し合うべきだった」というセリフから「愛し合えた」を抜き出し、「愛し合える」≒「理解し合える」というテーマを設定した。
これは旧作を活かしたテーマ設定ではあるものの、旧作を前提にしたテーマ設定ではありません。新しくテーマを設定したのですから、決してファン向けの「閉」じたテーマ設定ではなく、「開」かれたテーマ設定であると言えます。
また、作品中の各種設定をリアリティ方向へ寄せたことも、2199を「開」かれた作品たらしめました。『シン・ゴジラ』が示したように、リアリティのある設定は普遍性が高く、観客を選びにくい。ファンタジー性が高まれば高まるほど、「世界観」への適合過程でどうしても観客は選別されてしまいます。
そして、2199を引き継いだ『方舟』はどうだったでしょうか。
『方舟』のテーマは「相互理解」でした。2199のテーマをそのまま引き継いだのです。しかも『方舟』の「相互理解」は、ドメル・沖田・古代守といった2199の要素を前提にしています。
さらに『方舟』では、縁の下の力持ち的にリアリティのある2199設定が引き継がれたものの、強調されたのはジレル人という2199の中の「ファンタジー」的要素でした。
無論『方舟』は2199の一部分を構成する作品なのですから、2199ありきでストーリーが組まれるのは当然です。
しかし結果として見れば、ヤマト40周年を記念した『方舟』は、2199とそのファンに「閉」じてしまい、2199以上の広がりを見せませんでした。
こうして見ると、『方舟』の続編が『方舟』から方針を転換することは、必然であったかのように思えてきます。
具体的に言えば、『方舟』の続編として、2202が『方舟』と方針を異にしたことについては、「ローリスクで『開』かれたヤマト作品を作る」という一種の正当性があるような気がしてなりません。
だからといって現実の2202があれでいいのかと言えば話は別。
日を改めて、その辺りを考えることができたらいいな、と思っています。