ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

アンチある所に信者あり。副監督の模型プロモーションを考える

こんばんは。ymtetcです。

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この記事では、小林誠に対する個人的な批判はヤマトファンの仕事ではなく、小林誠アンチの仕事だと位置づけました。逆に小林誠に対する個人的な称賛もまた然りで*1、それは小林誠ファンの仕事だと位置づけました。

2202擁護派(少なくとも、批判派に比べれば)な私ですが、それ故に時折、副監督の言動にはとてもとてももどかしい思いをすることがあります。

それが、「エゴサーチ→引用ツイート→ブロック」という定番の行動です*2

言うまでもありませんが、これの被害を受けた方からすれば、2202に対するちょっとした愚痴を投げただけなのに、いきなり飛んできてめちゃくちゃなことを言われて挙句ブロックされるという、最悪の状況となります。ツイッター上においては、これが2202否定派の怒りを増幅させ続けてきました。

ヤマトファンには元々、ツッコミを入れたり批判したりしながらも「ヤマトだからね」と観続ける、そんな一風変わった文化が一部にありまして*3、それが復活篇や2199を下支えした側面は見逃せません。

副監督の「エゴサーチ→引用ツイート」は、そんなヤマトファンの領域に「公式」サイドの人間が鋭く斬り込みを入れた行為であると言ってもいいでしょう。ある意味、「ヤマトファンがヤマトを作るようになった」時代の弊害。

この行為によって、ヤマト2202は「いわゆる『アンチ』の過激化」という大怪我を負いました。作品だけでも多少の怪我を負っていたのに、それを悪化させてしまったと言った方がいいかもしれませんが。

 

そして今日は、もう一つの側面に目を向けます。

ヤマト2202の否定派を批判しブロックする一方で、副監督は、ヤマト2202を褒めている人については徹底的に厚遇します。「エゴサーチ→引用ツイート」という一連の流れが、極めてポジティブに働く*4のです。

まず、2202を褒めるツイートをしている時点で、概ねその人は2202に好感を持っています。そこへ副監督から直々にお礼がきます。引用ツイートでなくとも、リツイートあるいは「いいね」をするのは基本。

一定程度好きな作品のスタッフにコメントを貰えるのですから、それは嬉しいものでしょう。また、フォロワーの多い副監督にリツイートしてもらえることによって他の人々にも反応してもらえるのですから、これも気分が良いものだと思います。

世の中には「2202は好き、でも副監督は……」という人もいますから一概には言えませんが、このポジティブな流れに乗った人は、ひとまず副監督に好印象を覚えるはずです。

 

こうして「エゴサーチ→引用ツイート」という同じ行動をされながらも、その時2202を褒めていたかいなかったかによって、おおよそ副監督に対する印象は極端に二分されるのです。

 

これが何に繋がるか、と言いますと、模型の売上に繋がってきます。

副監督によれば、2202のメカはインパクト重視だそうです*5。これは模型プロモーションから見れば、理に適っていると思います。というのも、違和感のない存在は往々にして「誰にも文句は言われないが、誰にも褒められない」という状況に陥るからです。何となくみんな「いい」と思っているけど、誰も「好き」とは言わない。そして買わない。極端に言えばそんな状況が現出するリスクがあるのです。

 

これと同じことが、副監督のツイッターの言動においても言えるかもしれません。

もともと、彼の存在なんて所謂「ヤマト界隈」においては大した影響力を持たなかったはずですが*6、ここに副監督が自ら斬り込みを入れることで、「副監督」という新しい論点が生まれました。副監督は2202の批判者を煽り、否定して「小林誠アンチ」化する一方、称賛者を囲い込み、自らに好感を持つ「小林誠ファン」へと変える。副監督を軸として、ヤマト界隈を「好き」な人と「嫌い」な人に二分させるのです。

特定の人々を自らの手中に収めるにあたって、共通の敵を作ることは鉄則。そうして生まれた所謂「信者」は、自分の言いなりになってくれます。つまり、「買ってね」と言えばその通り買ってくれる。自分に認めて欲しいがため、レコメンドした以上に買ってくれることも。少数の狂信者(ファン)に徹底的に買わせる、そんなプロモーションが完成するわけです。

そして「アンチ」を煽りに煽り、「アンチ」が過激化すればするだけ「アンチ」は支持者を失ってくる。こうすれば、所謂「信者」という積極的な支持者だけでなく、「アンチのアンチ」といった消極的な支持者すら獲得できるのです。

 

副監督が意図してヤマトファンの分断と支持者獲得工作をやっている、そんな証拠はありませんけども、結果的にそうなっている側面も否定すべからざるものがあると思います。

「信者」というのも考えものですが、批判者としても、感情的になりすぎてしまえば多くの人の「敵」となり、却って副監督を利してしまうかもしれませんね。