ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2202】ある擁護意見に対する違和感

こんばんは。ymtetcです。

ヤマト2202に対して、このような擁護意見があります。

「これが新しいヤマト」

「最新の技術でヤマトが動いているだけで幸せだろ?」

「新作が観られるだけで幸せだろ?」

「もともとヤマトなんてそういうもの」

だから、

「受け入れろ」

と。

もともと、私は「ヤマト2202」というに対してはどちらかと言えば好意を抱いているので、批判意見よりも、称賛の意見に共感を覚えることの方が多いです。

しかし、ここで挙げたような擁護の意見には違和感を覚えざるを得ません。

何故ならば、これは我慢の強要に見えるからです。

私達は、他人の意見に耳を傾けない権利は持ち得ても、他人の意見を抑圧する権利は持ち得ないのではないでしょうか。

 

もっと深刻なケースですが、例えばあなたが、古くから存在する大企業に努め、そこで上司から日常的なパワハラを受けているとします。

 

それに対して、当事者・第三者を問わず、こんな意見を浴びせられたら。

「これは成長のチャンス」

「雇ってもらえるだけ十分だろ」

「生きているだけで十分だろ」

「これがこの会社の伝統なんだ」

だから、

「受け入れろ」

と。

 

これは全く違うケースですが、持っている構造は同じだと考えます。

同じ我慢の強要、内心の抑圧を意図したものだからです。

そして大抵、このような意見には、合わせてこんなフレーズがついてきます。

「嫌なら観るな(辞めろ)」

と。

残念ですが、他人がどんな作品を観るか、どんな仕事をするかを決める権利も、我々は持ち得ません。

ヤマトに焦点を絞りましょうか。

「嫌だから観ない」「嫌だけど観る」を決めることができるのは、自分自身だけなんです。

特にヤマトの場合、往々にして、その人にとってヤマトは長年連れ添ってきた「箱」。「嫌だけど観る」という人がいることは、ごく自然なことだと私は思います。

ですから、私達はより一層、自覚しておかなくてはならないと思います。

「嫌なら見るな」と命令できる対象は、自分自身だけだということを。