ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

2202の賛否を「世代」で分ける考え方について

こんばんは。ymtetcです。

ヤマト2202が完結し、今作品を取り巻く議論も、大きな変化を見せました。中でも私が驚いたのは、この賛否を「世代」で整理しようとする動きが現れたことでした。

もっと言えば、これは2202の観客を「若者」と「旧ヤマト世代」に分け、前者を「変化を受け入れる」「柔軟な」「2202を受け入れる」人々とし、後者を「頑固な」「旧作原理主義者」とするような動きが現れたのです。これは、2199の頃に見られた動きでもありましたね。

このような整理は、果たして妥当なのでしょうか。

私は、妥当ではないと考えます。

確かに、2199の時はこのような整理の仕方も一理ありました。何故ならば、2199には原作の「宇宙戦艦ヤマト」との比較軸しか存在しなかったからです。

宇宙戦艦ヤマト」(旧作)と「宇宙戦艦ヤマト2199」(新作)との比較しかなかった上に、従来の「ヤマト世代」に追加するような形で新規視聴者が入ってきたため、「世代」で賛否を論ずることにも一定程度の意味があったのです。

ですが2202は、「さらば宇宙戦艦ヤマト」(旧作)「宇宙戦艦ヤマト2」(旧作)「宇宙戦艦ヤマト2199」(新作)という比較対象がありました。旧作ファンにどう「変化」を評価されるかという軸だけではなく、新作ファンにどう「変化」を評価されるかという軸も存在していた。世代を基準として、単純に賛否を整理できないことは容易に理解できるはずです。

そして、今日はこれに加えて、また別の角度からも考えてみましょう。

2202の賛否を、世代で整理するべきではない理由──

 

それは、2202に込めた福井さんの想いを踏みにじることになりかねないからです。

福井さんは、こう述べていました。

『2202』に関しては、観客は我々40〜50代の人が中心になってるという感じもあったので、若者だけじゃなく、今の日本人がNOと言いたいことがあるだろう、それを中核にすえて命懸けで抵抗していく物語、というのにしました

(ヤマト新聞4)

──かつてのヤマトは若者向けだった。しかし、その若者も今は大人になった。ならば、単に若者向けだけではなく、そこに大人世代も含めた日本人(国籍ではなく、日本社会の全ての構成員)に向けて物語を作ろう。

 

これは福井さんなりに、作品に対して普遍性を持たせようとした努力に他ならないと考えます。

とすれば、若者だから、旧ヤマト世代だから、ではなく、2202と観客である一人一人の「1対1」の関係で作品の評価が行われ、その総体として「普遍的な評価」が形成されていくべきです。「世代」とは主観的な指標に基づく概念ではなく、年齢という客観的な、動かしがたい要素が組み込まれた概念です。福井さんが特定の「世代」へ向けて物語を組み立てていないとすれば、人々の感性を「上から」規定するような営みは排除して、それぞれがそれぞれの感性に基づいて、作品の評価を下すべきでしょう。

安易な世代論は、特定の観客(例えば、2202を否定する若者、2202を肯定する旧ヤマト世代など)を排除することに繋がるだけではなく、2202が目指していた姿を否定することに繋がりかねないのではないでしょうか。

 

最後に私感を付け加えます。

2202を批判している人は、そもそも「旧作そのままがよかった」「旧作原理主義者」などではないと思います。彼らは「旧作原理主義者」などではなく、単に、2202を「つまらない」と思った人たちなのではないでしょうか。

「変えた」ことを批判しているのではなく、「変えた結果、つまらなかった」ことを批判する。その中に「こんな変え方をするくらいなら旧作そのままの方がよかった」という考え方もあるかもしれませんが、それは原理主義者とは呼べません。