ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

肩書きを外してみるのもいいかもしれない

こんばんは。ymtecです。

思いついたことを記事にしてみて、その思いつきがいいものか悪いものかを実験してみることが時折あります。今日はそれです。

今日は、例えば「ヤマトファン」などの肩書きについて、これを外してみるのも案外いいのかもしれないと思いつきましたので、書いてみます。

〇「肩書き」のデメリットは何か?

「肩書き」のデメリットは3つあります。

まず、自分の考えが無意識の内に「肩書き」の中に制限されること。

次に、自分の発言が無意識の内に自分の考えからかけ離れていくこと。

最後に、自分が感じた感想を述べることができなくなること。

 

これらは全て、「宇宙戦艦ヤマト」作品と、「ヤマトファン」という肩書きを念頭に置いて考えたデメリットです。

例えば、「宇宙戦艦ヤマト」の新作があります。そして私は「ヤマトファン」を自称しているとします。

まず、このような肩書きがあると、無意識の内に、私の中には「ヤマトファンたるものこうあるべき」という感覚が存在していて、そこから発展して「ヤマトファンが望むヤマトとはこうだ」「ヤマトたるものこうあるべき」という感覚が生まれてきます。

この感覚は信念のようなものですから、必ずしも悪いものではありません。しかし、枠組みばかりに囚われてしまえば、却って作品の良し悪しを読み取ることができなくなるリスクもあるのではないでしょうか。

次に、ネット上で作品に対する感想を述べる場合を想定してみます。ネット上には、同じように「ヤマトファン」という肩書きを持った人が多数存在しています。そうすると、無意識の内に、ネット上における「ヤマトファン」の世論とでも言うべき主張に合わせなければならない、という感覚が生まれてきます。

これは、「ヤマトファンたるものこうあるべき」という感覚の発展形です。世の中の「ヤマトファン」の多くがそう言っているのだから、「ヤマトファン」たるもの、それと同じ感想を抱くのが当然だ、という感覚が、無意識の内に生まれてくる。そんなリスクも、肩書きにはあるのではないでしょうか。

最後に、これらのリスクを総合した時、本来自分がスクリーンもしくはテレビ画面から感じ取ったであろう感覚と、結果的にアウトプットされる「自分の主張」がかけ離れてしまう、そんなリスクも指摘できます。

最初のリスクは、自分自身の中で「こうあるべき」という感覚が生まれ、それが自己の感性をコントロールしてしまう、というものでした。次のリスクは、他者の意見に触れる中で「こうあるべき」という感覚が生まれ、それが自己の発言をコントロールしてしまう、というものでした。これらを踏まえると、本来の自分の感性、感じ取ったであろう感覚が、迷子になっていることが理解できると思います。

 

もちろん、肩書きや「こうあるべき」という感覚も含めて、自分自身の感性は成り立っています。ですが、何かを評価する時に、あまりにも「枠組み」ばかりに注目してしまえば、却ってその焦点はぼやけてしまうのではないか。

そんな問題意識から、今日は少し考えてみました。