こんばんは。ymtetcです。
前回「国民投票」編として長々と書きましたが、今回は恐らく短く済むでしょう。というのも、「ガトランティス」を包括的に取り扱うというよりは『2202』第23話のあるセリフを取り上げる、という形式だからです。
今日はまず、これをご覧いただきたいと思います。
ゲーニッツの声「生き延びたくば忠節を尽くせ。能力を示した者のみが、奴隷として生き存えることを許されるだろう」
(『シナリオ編』193頁)
『2202』第23話のセリフですね。
皆さまはこのセリフを聞いた時、どんな感想を抱かれたでしょうか。
私の感想はこうです。
「旧作とさほど変わらない意味のセリフだけど、なーんかパンチが弱いなぁ……」
旧作との表現の違いに、違和感を覚えたのでした。
それどころか、よくよく考えてみると、別の感想も浮かんできました。
「これ、賛同する人もいそうな言葉選びだよね?」と。
私が引っかかったのは「能力を示した者のみ」が「生き存える」という部分です。
ここで、旧作や2199における言葉選びを振り返ってみます。
〇『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』冒頭ナレーション
「進路にある邪魔な惑星どもを吸い込み、ひしゃぎ、粉々に粉砕していく、魔の巨大彗星。また一方、利用し得ると思われる惑星に対しては、そのどこからか、強力な前衛艦隊が飛び出して来ては、攻撃、侵略を繰り返し、彼らに従属する植民地として、人々を奴隷にしていったのである」
〇『さらば』バルゼー
「我が全能なる大帝星ガトランティス・大帝ズォーダーの命により、汝ら地球人類に告ぐ。生存か破滅か選択する時が来た。地球時間一時間以内に回答がなければ、我々は実力を行使する」
〇『さらば』ズォーダー
「どうだ、わかっただろう。宇宙の絶対者はただ一人、この全能なる私なのだ。命あるものはその血の一滴まで俺のものだ。宇宙は全て我が意思のままにある。私が宇宙の法だ。宇宙の秩序だ。よって当然、地球もこの私のものだ」
〇『2199 星巡る方舟』ダガーム
「科学奴隷として帝国に奉仕できる技術者は生かす。が、戦士は殺せ。女あれど生かさず殺せ!」
全てに共通しているのが「(帝国にとって)役に立つものは生かし、自分のもの(例:奴隷)にする。そうでない者は殺す」という論理です。
一方、『2202』シリーズ構成の福井晴敏さんは、旧作のガトランティスをこのように解釈しています。
巨大な彗星で移動する敵が現れて、強大な力によって「グローバリズムに従え」と言ってくる。
ガトランティス=グローバリズムの風刺、とする見方についてはまた色々と議論があるとは思いますが、いずれにせよ、これをリメイクすると自負する福井さんが『2202』のガトランティスに何らかの新しい風刺的役割を与えていることは想像できます。
そこで私が引っかかるのは、「能力」という言葉です。もっと突き詰めて言うならば、「能力を示した者だけが生き続けられる」という今回のガトランティスの言葉選びが、とても現代的な、ある一つの思想を意識しているような気がしてならないのです。
福井さんは、羽原監督との対談の中でファンにこんなメッセージを寄せています。
この作品は、いまの日本で生き辛さを抱えている多くの人たちに、同じように生き辛さを抱えた人々がスクリーンの向こうで解放される姿を観てもらう。そういう作品だったのかもしれません。
(『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 最終章 新星篇 パンフレット』25頁)
生き辛さを抱えた人々が解放される──という『2202』に込められたこの根本方針は、本編やシナリオに、様々な形で具体化されていきます。
例えば第21話では、愛する子どもを守ろうとする一心で悪魔の選択に翻弄され、自責から「死なせろ」と叫んだ加藤三郎、親を自殺で失ったやり場のない怒りから、人であることを放棄しようとした藤堂早紀、そして、波動砲艦隊の司令として全ての責任を背負いこみ、自らの命と引き換えにヤマトを救おうとした山南修たちが、「死んで取れる責任などないぞ」「おれたちは機械じゃない」「結論を急ぐな」(シナリオのみ)といった土方の言葉によって「解放」されていきます。
早紀の声「死ぬための波動砲であってはなりません。ともに生き抜くために!」
(略)
早紀「かまわない。これは私たちの……人間のフネだ」
(略)
潤んだ目をつかのま閉じ、開けてから、ちらと背後に首をめぐらせる加藤。
加藤「お互い、もう逃げっこなしですよ」
後部席の山南が、無言で頷く。
(『シナリオ編』176~177頁、太字は引用者)
もちろん、本作の主役である古代進や、その対立概念のひとつの象徴としての大帝ズォーダーも、例外ではありません。
度重なる喪失から己の創造主たる人間に絶望し、「人間を滅ぼして自らも滅ぶ」という、いわば「人間との無理心中」を図ったズォーダーも、
サーベラーそのものとなった純粋体の体を引き寄せ、もうよい、とズォーダーは言った。
「もう、いいんだ……」
千年ぶりに正面から抱擁を交わした二人を、眩い輝きが包んでゆく。千年の無為と、そこから解放された安堵の両方を受け入れながら、ズォーダーは到来する光を無心で見つめた。
(『シナリオ編』284頁)
直面する現実に己の理想を打ち砕かれ、多くの喪失に直面し、ついには「ズォーダーの言う通りかもしれない」「愛がなければ、苦しむこともない。あるいは、生まれなければ……」(『シナリオ編』より)と死を決意する古代進も。
人が宇宙に存在の意味を与える。人が理想郷を求め続けるなら、宇宙は理想郷にもなり得る。観測されるまで、可能性としてしか存在し得ない量子のように。”愛”という秩序も合理も超えた力によって──。
(『シナリオ編』286頁)
こうして「解放」されてゆきます。
そして、この「解放」に貫かれているのは、人間の存在(今ここに、在ること)を強く肯定する論理です。
土方艦長の「人間は弱い。間違える。それがどうした」(同上、176頁)だけではありません。2016年5月20日版の構成メモで、土方艦長にはこのようなセリフがあります。24話、土方さんが負傷して、古代進に肩を支えてもらっているシーンです。
「これまで人類が積み上げてきたものを無にするな。それが間違ったものだったとしても、おれは人であることを誇りに思う。おまえのような者が、あとに続いてくれるのだから……(略)」
(『シナリオ編』277頁)
おまえとは、古代進のことですね。
また、2015年11月20日のメモには、テレサの言葉としてこう記されています。
でも、その愛が”縁”を作る。見えないその力が宇宙を支える。いまは試行錯誤の時。愛と”縁”を紡いでいった先には、人が望む世界が待っている。
(『シナリオ編』267頁)
間違ったり、失敗したり、弱かったり……この世界の「役に立つ」存在じゃない、「役に立つ」ための「能力」などない……だとしても、生き続けたいと思う限り、人間は生きていていい。存在していい。
福井さんが『2202』で目指した「解放」とは、キャラクター自身がこのことを「自覚」する、自分の存在を認める、というプロセスを通じて、いまの日本で生き辛さを抱えている多くの人たちを「解放」する、というものなのでしょう。
これをどう思うかはそれぞれですが、これは西暦2203年の世界だけではなく、現代社会と連なる一つの考え方であることは言うまでもありません。
現代社会には、「解放」の対極にある考え方もあります。
現実を見つめて、効率的に役に立つものだけを選び、役に立たないものの存在をどこか否定して……それでなんら「生き辛い」とは感じていない人たち──「解放」など単なる弱者の言い訳に過ぎない、そんなものは必要ない、と考える人がこの世界にはいます。
それが悪いとも言いきれません。この考え方は、市場経済の中で必然的に生まれる極めて妥当性を持った考え方の先にある、一つの発展形なのです。
だからこそ、福井さんの説く「解放」は、人を選ぶ価値判断と言えます。
それでも、人を選ぶということがそれ自体、現代社会の延長線上に『2202』が描かれているということの証明だ、とも言えるでしょう。たとえ少数派でも、この社会にあり続ける苦しみなのですから。
ということで、福井さんの描く「ガトランティス」像を追求するというよりは福井さんの言う「解放」を追求する内容になりました。結果的には2202の一側面からの総括記事にもなりましたね。
ところで、書いていく中で色々なインタビューを読んでいたのですが、福井さん自身も第七章のキモは「国民投票」の選択と古代進の「解放」にあると考えているようです。
私としては、”『2202』って福井さんの価値判断入ってるから普遍的じゃないよね!”と半ば追求する記事を書くつもりが、ややもすれば共感的なスタンスの内容になってしまった、という感じですね(笑)。金曜日予告スタイルの弊害かもしれません。反省です。
さて今後についてですが、『シナリオ編』が手元にある分、『2202』の記事を書くのがやはり楽しいのですが、そろそろ『2205』へ向けても色々と考えていかなくてはならないと感じています。
とはいえ、『2202』を通じて福井さんを考えていくことは結局『2205』へ向けた作業でもあります。いつしか私が記事のタイトルだけメモしていた下書き「『新たなる旅立ち』のゆくえ」に期待を寄せつつ、過ごしている日曜日です。
次の金曜日には、また何かの「つぶやき」ができればと思います。
それでは!
ymtetc