こんにちは、ymtetcです。
外出自粛のGWをどうお過ごしでしょうか。自宅で過ごされている方もいるでしょうし、お仕事の方もいらっしゃるでしょうか。
せっかくなので、少しブログの話をします。
最近は12時に更新するように設定していますが、それは、職場・学校等でのお昼休みまでにお届けできれば、と考えているからなんです。かつては17時以降に更新するようにしていましたが、この時は通勤・通学時間にお届けできれば、という考えでした。12時ならば、両方カバーできますよね。どちらにせよ毎日更新ではないので、ご足労をかけていることは間違いないのですが。12時にはそんな狙いがあります。
また最近、ブログのデザインを若干変更しました。普段は記事を書くので精一杯なのですが(とくに先日の斉藤始の記事は大変でした)、休日にあまりすることがないなら少しブログで遊んでみよう、となったわけです。
そんなブログですが、今日も12時に更新していきます。
今日は『2199』のお話です。
『宇宙戦艦ヤマト2199』には、「悲壮感が足りない!」という批判がありました。
ツイッター検索でも、いくつかそんな意見を見ることができます(そうではない意見も見られますね)。
実は『2199』の頃、私は「2199信者」と蔑称されてしまうような立場をとっていました。「悲壮感が足りない!」という批判に対しては、「いや、旧作だってコメディシーンはたくさんあったでしょ!」と反論を繰り広げていたものです。
この反論は一見『2199』を擁護しているようで、実は『2199』に「悲壮感が足りない」ことを認めています。「旧作だってそうだもん!」と言っているだけですからね。
ですが、改めて考えてみると、そもそも旧作『ヤマト』と『ヤマト2199』を「悲壮感」で対比すること自体が、議論としてどこか物足りないように感じます。すなわち、私にとっては「2199には悲壮感が足りない」という意見もどこか"もっともらしく"見えますし、「旧作だってコメディシーンはあった、旧作も悲壮感ばかりではない」というのも(自分が昔そう考えていたわけですから)やはり納得がいくわけです。
では、より明確に旧作『ヤマト』にあって『2199』にないものとは、一体何なのか。
それは「使命感の共有」だと考えます。
「悲壮感」
辛く悲しい中でも健気に立ち振る舞う、という様子を意味する表現。悲壮感漂う、などのような表現で用いられる。
「使命感」
このように、「悲壮感」と「使命感」のニュアンスはかなり異なります。しかしどちらも、『宇宙戦艦ヤマト』にはピッタリな言葉ですね。
広辞苑に、「悲壮」は「あわれにまた勇ましいこと。悲しい結果が予想されるにもかかわらず、雄々しい意気込みのあること。」と出ています(第六版)。
そうすると、例えば旧作の「戦艦大和の最期」などは「悲壮」という言葉が相応しい。ですが、これが必ずしも「宇宙戦艦ヤマトの航海」に相応しいかどうかは、考える余地があります。
何故なら、「宇宙戦艦ヤマトの航海」は、明確に地球を救うという目的を帯びており、「戦艦大和の最期」に対置される「生きて帰って来るための航海」だからです。
もちろん、悲しみや辛さというバックグラウンドはあるにせよ、航海そのものは、むしろ人類にとっての「希望」。歯を食いしばって立ち塞がるというよりは、前を向いて進み続ける側面が強い。
この意味では、「悲壮感」は旧作『ヤマト』よりも『さらば』の方がはるかに強烈だったと言えるでしょう。
さて、こうして「宇宙戦艦ヤマトの航海」を「生きて帰って来るための航海」と見なした時、そこにあるのは「悲壮感」よりも、「使命感」だと私は考えます。
地球を救う使命を帯びて戦う
と主題歌に書かれているように、です。
さらに今回は、「使命感の共有」と考えました。より正確に言うと、「(劇中世界の人々と視聴者の間における)使命感の共有」です。
この点において旧作と『2199』を分けているのが、ナレーションの存在だと考えます。
先日の記事でも引用した、旧作のエンディングナレーションを見てみましょう。
ガミラスの放射能に侵され、人類滅亡まであと1年と迫った地球に、幸せが戻る日はいつか?
急げヤマトよイスカンダルへ。地球は君の帰りを、君の帰りだけを待っている。
ヤマトが地球を発してすでに95日。これからの航海予定日数、177日。人類絶滅と言われる日まで、200と67日。人類絶滅と言われる日まで、あと、200と67日。
私はナレーションこそが、旧作において「使命感の共有」の役割を果たしていたと考えます。
『ヤマト』のナレーションというと、「人類滅亡まであと〇〇日」に相当する部分だけが注目されがちですが、そこだけを見ていてはいけません。
このエンディングナレーションには、これだけの情報が盛り込まれています。
- 地球がガミラスの放射能に侵されていること
- 人類滅亡まであと1年と迫っていること
- 地球に幸せを取り戻さなければならないこと
- そのためにヤマトはイスカンダルに急がなくてはならないこと
- 地球はヤマトの帰りだけを待っている(頼りにしている)こと
- ヤマトが地球を発して95日が経過したこと
- これからの航海予定日数が177日であること
- 人類滅亡と言われている日まであと267日であること
- (つまり、今のペースでは間に合わないこと)
人類滅亡までのカウントダウン以外に、旧作『ヤマト』のナレーションは「今のペースでは間に合わないけれど、ガミラスの放射能に侵されている地球にとっては宇宙戦艦ヤマトだけが頼りだ。だからイスカンダルへ急げ!」と言っています。
これこそが、「使命感の共有」なのです。
「人類滅亡まであと1年を切っている」こと、「地球にとっては宇宙戦艦ヤマトだけが頼り」であること、「今のペースでは間に合わない」こと。ヤマトを取り巻く状況は、概ね旧作『ヤマト』も『2199』も同じです。
そして重要なのは、このエンディングナレーションは「ビーメラ星、地下牢の死刑囚‼」のものであること。「急げヤマト‼地球は病んでいる‼」の回ではありません。
「ビーメラ星、地下牢の死刑囚‼」は、「食堂での雪のファッションショーとアナライザーのスカートめくり」からスタートします。ガミラスと植民星の間の政治ドラマをも交えて描かれるのは、『2199』第9話のベースとなった「機械に心はあるのか」です。
もちろん、ヤマトにはビーメラ星で野菜泥棒補給をしなければならないという重要な任務があるのですが、何の気なしに本編を見ているだけでは、先ほどの「人類滅亡まであと1年を切っている」こと、「地球にとっては宇宙戦艦ヤマトだけが頼り」であること、「今のペースでは間に合わない」ことは、視聴者にはさほど強く伝わってきません。
ですが、劇中世界ではビーメラ星にヤマトが立ち寄っている間にも、地球は病み続けています。本編のヤマト乗組員は、どちらかと言えば楽しそうにしているシーンが描かれている回ではありますが、前提として、彼らも地球の状況や自分たちのしなければならないことは理解しています(描かれていないだけ)。
本編の内容と劇中世界に、若干のギャップが生じているわけです。
そのギャップを埋める存在こそ、先ほど引用したナレーションなのですね。
旧作『ヤマト』は、本編でどんな内容を描くにせよ、必ずナレーションを通じて、劇中キャラクターの「使命感」を視聴者に「共有」していました。
ナレーションは劇中キャラクターの立場を説明しつつも、「急げヤマトよ」「君たちの肩にかかっている」と、劇中キャラクターを鼓舞する立場に立ちます。言外には、「君も一緒にヤマトを応援しよう」という視聴者への呼びかけもあるのでしょう。
その意味では、ナレーターは視聴者と作品の間に立つ存在だったのです。
つまり、『2199』は、もちろん旧作『ヤマト』よりもライトな作風で作られているとはいえ、必ずしも細部でのキャラクターの言動・心情描写が旧作『ヤマト』と大きく異なっていたわけではない。必ずしも旧作の乗組員が悲壮感にまみれて航海していたわけではありませんし、『2199』のヤマトクルーが呑気に航海していたわけでもないわけです。
違うとすれば、ナレーションを介した「使命感の共有」の有無でした。
そして、『2199』では「使命感の共有」が足りなかったために、劇中キャラクターや宇宙戦艦ヤマトが劇中世界で抱いていた「使命感」が視聴者に「共有」されず、そのことが視聴者にとっては、どこか緊張感が欠けているように映った。
『2199』の「悲壮感」問題については、こういった見方もできるのではないでしょうか。
〈余談〉
【ブロンズ会員様追加購入】STAR BLAZERS ヤマトマガジン【Vol.07】 YAMATO CREW
表紙が公開されました。次号のヤマトマガジンではSF考証がフィーチャーされるようです。しかも、『2202』の小倉さんと『2199』の半田さんが共演。やはり最近の『宇宙戦艦ヤマト』の風向きは変わってきているように思います。『2205』では一挙にSF路線への回帰が図られる可能性もありますね。