ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2202】古代進は『ヤマト2199』そのもの

こんにちは。ymtetcです。

前回の記事では、『2202』の「構成メモ」から『2199』要素を見つける、という作業を行いました。結果、『2202』がさほど『2199』要素を重視していない、という事実が改めて浮き彫りになったわけですが、前向きな気づきもありました。

それこそが、『2202』構成メモで繰り返し語られる「相互理解」です。

過去記事「【ヤマト2202】最終話は絶対に必要なんです - ymtetcのブログ」で、私は『2202』における宇宙戦艦ヤマトの航海が、古代進にとっては「当たり前のことを当たり前にする」「地球人みんながそう(当たり前のことを当たり前にできない人間)じゃないと証明する」ための航海だったと述べました。そして、最終話でヤマトが古代進を迎えに来たことそれ自体が、「地球人みんなが『当たり前を当たり前に』できない人間ではない」ということの証明であり、最終話で地球人類が下した、”時間断層を廃棄=波動砲艦隊構想を破棄してでも、そこで生きている人を助ける”という決断は、古代進の心を救う選択だったとしました。

さて、「当たり前のことを当たり前にする」というセリフで登場する「当たり前」とは、古代進にとって何だったのでしょうか。このセリフが飛び出す第七話を見ると、

約束は守る。助けを求められたら手を貸す。みんな当たり前のことでしょう……⁉

「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第七話『光芒一閃!波動砲の輝き(仮題)』第一稿」『シナリオ編』58頁。

というように、「約束を守ること」=波動砲を使わないということ」、「助けを求める声に応じること」=「テレザートの救難信号に応じること」にあったように受け取れます。特に、ガトランティスの艦隊を目前にしたこの時は、「波動砲を使わない」「スターシャと沖田が交わした約束を守る」ことに重点が置かれているように見えます。

ですが、古代進にとっての「当たり前」はそれだけだったのでしょうか。

古代進は『ヤマト2199』の化身>

前回の記事でも引用した「構成メモ」を、もう一度読んでみましょう。

(略)宴会は現行地球政府への恨み節で溢れるようになる。

(略)他星文明への恐怖と警戒で凝り固まり、国民生活を蔑ろにしてでも軍備増強を強行する地球――ガミラスに滅ぼされかけたトラウマがさせていることであろうし、政策の在り方としては理解できるが、ヤマトの大航海はこんな地球を取り戻すためのものだったのであろうか。他の星の人間たちとも手を取り合える、その可能性を携えてヤマトは帰ってきたのではなかったか?

(『シナリオ編』228頁、下線はymtetc。)

これは「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』構成メモ➀」における「第一章 西暦2202年(一・二話)」の記述です。

さらに、もうひとつ。

事ここに至って、古代たちの反乱の機は熟する。助けを求める誰かのため、すべての星間国家が手に手を取れる可能性を示すために、ヤマトは再び起たねばならない。

(『シナリオ編』231頁、下線はymtetc。)

これは同じく「構成メモ➀」における「第二章 未知への発進(三~六話)」の記述です。

ここから、『2202』における宇宙戦艦ヤマトの航海には、「すべての星間国家が手に手を取れる可能性を示す」という一つの目的があったことが分かります。

すなわち、『2202』で古代進が貫き、へし折られ、それでも最後には肯定された”理想”には、「他の星の人間たちとも手を取り合える」「すべての星間国家が手に手を取れる」も含まれていた。これは、『2199』及び『方舟』が語った「相互理解」に他なりません。

言い換えるなら、『2202』の古代進とは「波動砲は使わない」「他の星の人間たちとも手を取り合える」ことを理想と信じている人物であり、その理想とは、『ヤマト2199』の語ったテーマそのものだったのです。

波動砲艦隊は「相互理解」のアンチテーゼ>

さらに、上述の「構成メモ」引用で注目すべきは、波動砲艦隊が「他星文明への恐怖と警戒」の象徴として描かれていることです。

波動砲艦隊は地球の、特にガミラスに対する不信感の象徴でした。本編では、藤堂が「ガミラスが地球を再侵略するのは容易」という旨を語り、バレルが「危険な火遊びだと忠告」する場面も描かれ、さらに街頭の「ガミ公出ていけ」「地ガ安保粉砕!」という落書きも登場しました。これに加えて、第二話の「シナリオ」では、本編よりも踏み込んで地球・ガミラスの相互不信が描かれています。

来賓車用の駐車場。

バレル「少しは愛想よくしろ、キーマン中尉」

キーマン「ここは敵地です」

バレル「三年前はな。今は違う」

キーマン「そうは思えません」

車の後部ドアを開け、バレルを先に乗せるキーマン。

その視線の先で、地球政府の公安筋から派遣されたのだろう監視者がそそくさと背を向ける。

(『シナリオ編』14頁。)

ここから、地球では、世論も含め、一部の地球人にとってはまだガミラスは信用し得る相手ではないと見なされており、それはガミラス人にとっての地球も同様だったと伺えます。その「異星人」への不信感の象徴が、地球政府の「波動砲艦隊」政策だったわけです。

『2202』が描いた「波動砲艦隊」は、「波動砲は使わない」「相互理解」という『2199』の理想、すなわち古代進の理想に対して二重に反する存在だったと言えます。

<ガトランティスは「相互理解」=「愛」を否定する存在>

ガトランティスは、「相互理解」に反する存在として描かれました。実は『2199』の『方舟』でも、ガトランティスは同様に描かれています。ファーストコンタクト時、ダガームが古代の呼びかけに”笑止!”と応じたことを思い出してみてください。

その点では、『2202』におけるガトランティスの描き方に意外性はありません。おそらく出渕さんがガトランティス編を作ったとしても、同じようにガトランティスは「相互理解」に反する存在として描かれたでしょう。

ですが、「構成メモ」を読むと、『2202』はこの”アンチ「相互理解」”というガトランティスの描き方にひと工夫を加えていることが分かります。

それが、前回の記事でも引用したこの部分です。

我々は、人間は、あらゆる意味で独りではない。異星の者たちとでさえ”縁”の力で結び合っている。そう、それがかつての宿敵であっても――。是非もなく、それを確認するためにヤマトはテレザートに呼ばれたのかもしれない。宇宙の愛、か……と真田が呟き、それを否定するガトランティスとの決戦を全員が各々に覚悟する。彼ら愛の戦士たちを乗せ、ヤマトは地球へ針路を取った。

(『シナリオ編』259頁。)

これは第16話のラストシーンに相当する「構成メモ」です。キーマンがデスラーと袂を分かち、テレザートが消滅していった、その後のシーンにあたります。

このメモのポイントは、「人間は独りではない」「異星の者たちとでさえ結び合う」ことについて、「それを確認するためにヤマトはテレザートに呼ばれた」としつつ、これを「宇宙の愛」と表現していることにあります。

「人間は独りではなく、異星の者たちとでさえ結びあう。これが宇宙の愛であり、それを確認するためにヤマトはテレザートに呼ばれた」。

この命題はテレサが語るものではなく、この航海を通じてヤマトのクルーが感じ取ったものです。『2202』は、このようにテレザートの航海を総括することで、以下のような構図を『2202』に出現させました。

すなわち、『2202』は、『2199』のテーマであった「相互理解」を「愛」のひとつの形であると見なします。そして、その「愛」を否定するガトランティスとの対立構造を明確化しているわけです。

ガトランティスが「愛」を否定するようになったきっかけは、ズォーダーの他者(人間)への不信感でした。異星人との「相互理解」は、この対極にあると言えます。

このように、『2202』は「アンチ相互理解」のガトランティスを「人間不信」「愛の否定」として一般化することで、ガミラス側にも地球側にも当てはまる軸を作る、というひと工夫を加えているのです。

<地獄の第五章ラストと第六章以降の「回生」>

地球側について、さらに見ていきましょう。『2202』に存在した宇宙戦艦ヤマトの思想的な敵対者は、地球側では

の二つがありました。『2202』の宇宙戦艦ヤマトは『2199』の思想を理想に位置づけている存在であり、地球政府・ガトランティス・銀河は、思想的に『2199』を否定する存在だったと言えます。

そして、このような『2199』の理想は、第五章までほとんど否定され続けてきました。 さらに、ナミガワ様によれば、第五章ラストの加藤の選択&銀河の登場は、宇宙戦艦ヤマトの「アイデンティティー」が内部から否定され、ヤマトにとって代わる存在が登場するという意味で、最大の皮肉でした*1

第五章上映の直後が最も『2202』への批判が過熱したタイミングだったと記憶していますが、小林誠副監督に対するファンの不満を除いても、このタイミングでファンが嫌な思いをする、否定されたような気分になる、作品への不満が噴出するということは、実はシナリオ的には一種の”狙い通り”だったとも考えられますね。

このように、第五章までの『2202』は、やや強引にまで「愛を否定する」ドラマへと観客を誘導し続けました。

ですが、第六章以降、『2202』はカッシーニの間隙まで後退した地球艦隊のごとく一挙反転し、「愛を肯定する」ドラマへと進んでいきます*2

そして第七章に至って、こちらも強引なきらいはあるものの、古代進の理想が肯定されていくわけです。

おわりに──『ヤマト2202』は『ヤマト2199』の理想を肯定する物語

『ヤマト2202』は、「現実」によって否定され続けてきた古代進の「理想」を最終話に肯定する、というカタルシスが物語の軸になっています。

そして、この古代進の「理想」は「波動砲を使わない=沖田とスターシャの約束を守る」「異星人とも理解しあえる」という点にありました。

古代進の「理想」とは、『2199』そのものだったのです。

その意味では、『2202』は波動砲を封印した『2199』『方舟』に対して、”現実はそんなにうまくいくのか?”と揺さぶりをかけつつ、最後は『2199』『方舟』の”理想”を肯定してみせる、という構造をとっていたと言えます。

『2199』(古代進)に過酷な「現実」を突きつけ、『2199』(古代進)が『2199』(古代進)自身を否定するまで追い込む。だが、最後に『2199』(古代進)が救われる。真田が古代を語る演説のシーンで「GreatHarmony」が流れましたが、『2202』の古代進の思想が『2199』『方舟』そのものだとすれば、あそこで『2199』と『方舟』を象徴するメロディを流すのは理に適っていると言えます。

こうして見ると、少なくとも思想としては、『2202』はきちんと前作『2199』を受け継いで作られた物語だったと言えますね。

 

ですが、本編『2202』から「相互理解」というテーマを感じ取ることは、おそらく並大抵の人間では不可能です。シナリオ『2202』ほどの、『2199』との思想的な連続性を本編『2202』が強調できていたかと問えば、答えは否でしょう。

『2202』は、スターシャと沖田の「約束」のセリフを積極的にリフレインしていました。同じように、古代守や進が『2199』で語っていた「相互理解」をリフレインできていれば、3年前の「理想」と今の「現実」のギャップに苦しみ、救われてゆく古代進の深層心理を、より強く、深く観客と共有できたかもしれませんね。