ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2202】加藤三郎の戦死を考える

こんにちは。ymtetcです。

宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』において、第六章「回生篇」では”生きて恥をかけ、どんな屈辱にまみれても生き抜け”というドラマの中核に立っていながら、最終章「新星篇」で戦死した加藤三郎。

加藤三郎は旧作で戦死したから。生きたいと願う人間が死ぬ、それが戦争だから。

そう考えてしまえば結論は早いのですが、『2202』は言うまでもなくフィクション。作家の意思によって構成されるものですから、どうとでもやりようはあったはずです。

最近では、『2202』で当時副監督だった小林誠さんが、「加藤の戦死を阻止しようとした」とツイートして話題になりましたね。

そこで今日は、いま少し「加藤三郎の戦死」について考えてみたいと思います。

そもそも「構成メモ」では、加藤三郎が戦死する第24話には当初、

猛烈な勢いで死に行く人々。

(『シナリオ編』267頁。) 

としか記されておらず、加藤の扱いについてはまだ決まっていないことが分かります。その後、最終的な「構成メモ」では、

逃げるわけじゃない――群れをなして襲い来る敵機をいなしながら、加藤は一同に告げた。今のおれは死ぬほど生きたい。真琴の顔が見たい。元気になったんなら、翼を肩車してやりたい。これまでしてやれなかったことを、全部してやりたいんだ。

(略)

ごめんな、と加藤は最後の息で呟いた。真琴、翼……もうなにもしてやれない……でも、よ……。

父ちゃん、カッコよかったろ

(『シナリオ編』278頁、下線は引用者。) 

と、ほとんど本編通りの描写が記述されています。

下線を引いた「父ちゃん、カッコよかったろ」というセリフ(各話シナリオにも残っているセリフです)を見れば、公開時にこちらのブログで考えたように

強いていうならば、死んだことによって、加藤は翼と真琴にとっての「かっこいい父ちゃん」のままでいることができた。それは幸運だったかもしれません(向き合って欲しかったですが)。

(【ネタバレ含】ヤマト2202『新星篇』の「-1」ポイント - ymtetcのブログ

第5話における真琴の「かっこいい父ちゃんでいてよ」に対応するシーンとして、このシーンが想定されていたことが分かります。

ですが、『2202』が第六章で提示した「愛」のドラマの根幹は、むしろ、

「生きろ。生きて恥をかけ。どんな屈辱にまみれても、生き抜くんだ!」

土方がこう説いたあのシーン、画面には加藤の姿も映し出されました。「弱い父ちゃん」でもいい、「間違える父ちゃん」でもいい、「恥ずかしい父ちゃん」でもいい。

愛する人のために、自分のために絶望して死ぬくらいなら。

「かっこいい父ちゃん」じゃなくても

生きていればいい。

第六章にこんなメッセージも込められているとすれば、第六章は、加藤が生き続けることを肯定するドラマでもあったと言えますね。

(【ヤマト2202】藤堂早紀のドラマと加藤三郎 - ymtetcのブログ)

(繰り返し手前味噌で恐縮ですが) 「『かっこいい父ちゃん』じゃなくても生き続ける」ことにある、と考えていた私からすると、ドラマがちぐはぐになっている感は否めません。

それでもなお、加藤三郎を戦死させることに最後までこだわった脚本チームのこだわりは、一体どこにあったのか。

今度は各話シナリオを見ていきます。

シナリオ版『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第24話「ヤマト、彗星帝国を攻略せよ!(仮)」では、彗星帝国内部宇宙に浮かぶ要塞惑星に波動掘削弾を打ち込んで惑星を砕き、一挙にガトランティスの攻撃を振り切ってゴレムへと向かう作戦が決行されます。シナリオでは、これが戦死した「土方前艦長の命令」にあたります。

この作戦には古代、山本玲、キーマン、加藤、そして篠原以下のコスモタイガー隊計9機が参加しました。この中から3発、波動掘削弾を撃ち込むのが目標です。

作戦を決行する最中で、ラーゼラーが波動掘削弾の着弾を阻止するために、ヤマト航空隊に立ちはだかる、この大きな流れの中で、加藤は戦死します。

この大きな流れこそが、この「加藤三郎の戦死」を考える上で大切なのです。

「加藤三郎の戦死」シーンの記述をみてみます。

爆炎を突っ切った加藤機が地表へ突き進む。

× × ×

顔を伏せる篠原。

× × ×

目を見開いている古代。 

(『シナリオ編』199頁、下線は引用者。)

この下線部「目を見開いている古代」が重要です。

実は、これと似たような記述が第24話シナリオの他の部分にもありまして、

第一艦橋。島が叫ぶ。 

島「機関長!? 徳川機関長……!

その傍らで、かっと目を見開いて拳を震わせている古代

(『シナリオ編』197頁、下線は引用者。)

徳川機関長の戦死シーンです。本編にもありました。

他にも、本編第24話にあったものとしては「土方艦長の死」、「桂木透子の死」(ズォーダーを介して知る) 、第25話の「斉藤始の死」「キーマンの死」「山本玲の『死』(死んではいない)」に、古代進は直面します。そして、第25話ラスト「さらば宇宙戦艦ヤマト」に至る流れですね。

この流れが意味しているのは、「加藤三郎の戦死」とは本来、古代進と視聴者から大切なものを奪っていく描写のひとつだったということです。

中でも加藤は、『2199』第1話から古代と面識のあるキャラクターであり、旧作同様、古代と視聴者にとっては”戦友”の一人でもあります。

さらに、逆に考えると、仲間想いであり、自らも「死にたい」を経験している加藤が仮に第25話ラストの時点で生きていたら、古代進の心中を察し、『2199』第2話のようにぶん殴ってでもヤマトから降ろしたかもしれません。加藤が古代の心の支えの一つになる可能性もあったのです。

ゆえに、加藤の戦死は古代にとって、主観的にも客観的にも大きな喪失であったと言えます。その喪失を必要としたからこそ、脚本チームは「加藤三郎の戦死」に拘ったと私は考えます。

 

こうして考えると、小林誠副監督が「せめて最後はふわーっと光芒の中に消えさせたわ」と語る本編の「光の中に消える」という描写には、非常にモヤモヤが残ります。

シナリオの狙いからすれば、「加藤三郎の戦死」を古代進が目撃しなければ意味がないからです。

上述のように、小林さんは実質的に自らが「光の中に消える」描写を取り入れたと主張しています。文脈からすれば、それは加藤三郎の戦死に反対し続けたが故の選択だったようです。

加藤三郎を戦死させるべきではない、という点に関しては、私も全く小林さんに同感です。故に、小林さんの脚本チームに対する不満には共感できます。

ただし、「光の中に消える」描写に変えたことを、何か脚本チームに対して一矢報いたかのように、積極的に語ることには同意できません。結果的に、「光の中に消える」描写に変えてしまったことで、『2202』は加藤三郎の戦死から何も得ることができなかったからです。

繰り返しになりますが、加藤を戦死させるならば、古代進に目撃させなければ意味がありません。

仮に小林さんが、「加藤三郎の戦死」に拘る脚本チームへの不満の発露として「光の中に消える」描写を取り入れたのだとしたら、それはあまりにも脚本への不満が先走りすぎてしまっていた、と私は考えます。この描写では、単に脚本の意図を骨抜きにして視聴者に違和感を抱かせた、というマイナスの側面しか持ち得ないからです。

 

小林さんが不満をぐっとこらえ、脚本の意図を最大限に汲んで描写するか、脚本チームが中核スタッフの意思を尊重し、加藤三郎の戦死を丸ごとなくして作り変えるか。

この二つで激論を交わすのが理想的な、視聴者目線に立った作劇だと私は考えます。

本編のそれは、「加藤を戦死させたい脚本チーム」と「加藤を戦死させたくない副監督」が議論した末の、単なる妥協案に過ぎません。互いが互いを納得させることに集中し過ぎて、結局どちらも満足することは出来なかった、とでも言いましょうか。

ゆえに、「加藤の戦死」をめぐる混乱は、誰か一人の責任ではなく『2202』制作チーム全体の責任、『2202』制作チーム全体に視聴者目線が欠けていた結果だと考えます。総監督を置かず、合議制で作られた副作用だったのかもしれません。

 

翻って『宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち』は、スタッフの配置を見るだけなら、単に羽原監督が安田監督に入れ替わっただけしか見えません。

スタッフ間の主張を調整して妥協案を導き出すのではなく、画面の向こうの、たった一人の視聴者(本来、作品と視聴者は一対一のはず)がどう受け取るかを大切にする。その決断を誰かが責任をもって下せる。そんな体制が、果たして『2205』に敷かれているのでしょうか。

「加藤の戦死」の失敗を『2205』で繰り返してはいけない、と私は思います。