こんにちは。ymtetcです。
前回の記事「福井晴敏の『ヤマト2202』語り パート1」では、福井晴敏の語りを中心に、「『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか?」を考える試みを始めました。
第一回の記事で分かったのは、以下の三点でした。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』とは……
1点目と2点目は、おおよそ私の理解の範疇にあるものでした。
ですが、3点目「『戦艦なのに反戦』という『矛盾』を『真正面から受け止めた』」という点については、直ちに納得することはできませんでした。
そこで今日は、『宇宙戦艦ヤマト2202』と「『戦艦なのに反戦』という矛盾」がどう関わっていたのか、これを考えていきたいと思います。「愛をヒューマニズム(人間性)として描き、肯定した」という『2202』の特徴を踏まえつつ、「戦艦なのに反戦」というフレーズを「戦争に反対するのに武器は捨てない」と解釈して、議論を進めていくつもりです。
では、考えていきましょう。
そもそも、『2202』には「矛盾」という言葉が使われている局面がありました。
それが「構成メモ⑥」の第25話です。
「……わからない」
不意に口を開き、古代はズォーダーを正面に見返す。「おれにはわからない。あなたは言うことが正しいのかもしれない。でも……」
(略)
「でも、みんなが言っている。生きろって。人が人であることを、愛を手放すなって。たとえ、この命に替えても」
「生きるために、愛のために命を捨てると言うか。なんという──」
「そうだ。矛盾してる。命は矛盾してるんだ。完全な秩序に支配された宇宙にあって、ただひとつ……」
だから存在する意味がある。言外に続けた古代の意志に、初めて息を呑むズォーダー。
(「構成メモ⑥ 第二十五話」『シナリオ編』282頁、下線は引用者。)
本編にはなかったシーンです。構図からして、旧作の古代が「宇宙は母なのだ」と語るシーンをリメイクするプランだったのでしょう。
決裂した古代・ズォーダーの両者ですが、「構成メモ」では第25話ラストに(メインパネルごしに)再度、対話する機会を得ます。そして古代はズォーダーに「完全な秩序に支配された宇宙にあって、命はただひとつ矛盾してる。だから存在する意味がある」と説きます。
言い換えるなら、「命」の「矛盾」こそが人の存在理由である、というわけです。ここから、『2202』では、「人間性」は「矛盾」した(「矛盾」しているからこそ、肯定できる)ものとして描かれていることが分かります。
「完全な秩序に支配された宇宙」という表現には、「宇宙は科学で解き明かせる」という思想が込められているのでしょう。「人間性」を「科学」と対置させる発想です。例えば「記憶は電気信号に過ぎない」というズォーダーのセリフも、あきらかに「記憶は科学で解き明かせる」ということを意識していますよね。宇宙の存在は科学で解き明かせるものであり、そこに「矛盾」など存在しない、といいたいわけです。
ですが、人間性は「矛盾」していて、どこまでも主観的で、客観的ではない。その意味で、『2202』で人間性は「秩序」と対置される存在として描かれます。
もちろん人文科学は大切ですが、人文科学でさえ、人間のすべてを解き明かすことはできません*1。
このように、『2202』は、多様性を持ち、解き明かせない存在こそが人間なのだと語るわけです。これが、『2202』が肯定した「人間性(ヒューマニズム)」のありようだと言えます。
では、これを踏まえて、「戦艦なのに反戦」という矛盾を「戦争に反対するのに武器は捨てない」という表現に置き換えてみましょう。
すると、ひとつの「矛盾」を象徴する意味で浮かび上がってくるのが、「引き金」という『2202』のキーワードです。
第23話、古代とミルの会話を見てみます。
ミル「……結局はそういうことだ。向ける先が変わっただけで──」
(略)
ミル「──引き金を引くことに変わりはない」
(略)
古代「そうだ。人間は、いつだって引き金を引く方を選んできた」
(略)
古代「そうするしかないから、自分の心を殺してでも……」
(略)
古代「生きるために、生かすために、きっとおれたちはこれからも引き金を引き続ける。でも、その先には──」
(略、地球・ガトランティス・旧イスカンダル帝国を重ね合わせる演出)
古代「愛を棄て、多様性を棄て、力と効率のみを追求した戦闘国家……ガトランティスじゃない。地球のことだ。ガミラスのことだ。おれたちは──」
× × ×
古代「──自分の、未来の姿と戦っているんだ……」
(「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第23話『愛の戦士たち(仮)』第二稿」『シナリオ編』188頁。)
また、真田の演説にも、
真田の声「生きるために、守るために、彼は自分の心を裏切ってきた。
(略)
(「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第26話『地球よ、ヤマトは……(仮)』第一稿」『シナリオ編』214頁。
という言葉がありますね。
武器を持つということは、「引き金」を手元に用意するということです。
そして『2202』は、そこにある「引き金」を”引かない”と心に決めておきながら、引き続けざるを得なかった男・古代進を描いてきましたよね。
一般化して考えてみましょう。
なぜ人間は、「引き金」を引く選択肢を選ばなければならないのでしょうか?
言い換えるなら、なぜ人間は戦うのでしょうか?
それはきっと、「大切な何かを守るため」でしょう。「大切な何か」が人であれ、信仰であれ、国であれ。人間は、「人間性」を持って何かを大切に思っているが故に、それを守るための戦い、それを侵すものとの戦いを”しなければならない”との思いに駆られ、実際に戦いを繰り広げていきます。
ですが、積極的に戦いを望む人間は、本来そうそういません。
では問いを反転させてみます。なぜ人間は戦いを嫌うのでしょうか?
実は、この答えも「大切な何かを守るため」となってくるのです。それが命であれ信条であれ、奪い/奪われるのが戦いなのです。戦いが存在しない世界ならば、自分の大切にしているものが無下に失われることはありません。
この点において、人間は「矛盾」していると言えます。
命を守りたい、大切なものを守りたい、だから戦いは嫌だ。でも、この現実で大切なものを守るためには武器を持ち、引き金を引いて、戦わなければならない。
古代「(かすれ声で)雪……」
(略)
古代「ダメだ……ダメなんだよ。どんなに探しても見つからないんだ」
押し寄せる無数の未来(新たなる~以降の悲劇的なシーンばかり)。
古代「引き金を引いて、失い続ける未来しか……おれたちには……」
(同上、『シナリオ編』215頁。)
その事実が、古代を現世から遠ざけているのです。
振り返ってみれば、旧作『宇宙戦艦ヤマト』シリーズでは、大半の作品のどこかに「戦争はいけない」「戦いは虚しい」といった「反戦」メッセージが盛り込まれていました。
それでも、新作が作られる度にヤマトは戦うし、誰かを殺すし、自分たちも殺されていく。奪い奪われる戦いが、毎作のように続きます。しかも『復活篇』や『2520』の存在が、戦いはヤマトがアクエリアスに沈んでも、古代たちがいなくなっても、半ば永遠に繰り返されるものだという冷酷な現実を突きつけています。
さらにメタ的な話をすれば、『宇宙戦艦ヤマト』が『宇宙戦艦ヤマト』である以上、その作品の中で「戦い」を避けることはできません。断じて「戦争賛美」の作品にはしない、と心に決めておいても、『宇宙戦艦ヤマト』は「戦い」を描くことから逃れられませんし、観客も「戦い」を求めます*2。
この事実を福井さんが「矛盾」だと見ていたのだとしたら、『2202』にはその問題意識がきちんと反映されているのかもしれません。
『2202』で描かれた古代の理想のひとつは、第23話で描かれたように、たとえ武器を手放してでも戦いを終わらせることにありました。ですが、それは現実的な選択肢ではありません。これは皆さまもよくご存じでしょう。
非武装平和という「理想」は、現実世界においては「お花畑」でしかありません。武器を持って戦うことを、人間がそう簡単にやめられるはずがないからです。
では、そんな理想は捨ててしまっていいのか?
私には、福井さんがそう問いかけているように見えます。
そして、それを問うために銀河とズォーダーが描かれたようにも見えます。
銀河は地球人類を守るためなら何でもやる、という存在です。「人間性」に裏切られた過去を持つ藤堂早紀を艦長とする銀河は、人間性を「不要な感傷」と切り捨て、餓鬼戦争を最後まで戦う覚悟を決めていました。
そしてズォーダーは、何かを守るために戦い、争い、傷つけ合うことをやめられない「人間」に絶望し、「人間」を滅ぼそうとします。古代アケーリアス文明の実験は失敗した、悪しき種は滅ぼさなければならない、そして、新たな種の発生を待つ。そうしてこの宇宙の「リセット」を企てるズォーダーもまた、かつては「人間性」に裏切られた存在でした。
これを踏まえると、『2202』を通じて福井さんが主張しようとしたことは、以下のように整理できます。
- 人間が「人間性」を持つ限り、戦いは避けられない。
まず、これが一つ。さらに、
- 「全員で武器を捨てて平和に暮らそう」という、ともすれば愚かな「理想」を描くことができるのも人間であり、「人間性」である。
これがもう一つです。そして、
- 人間がその「理想」を描き続けていたとしても、この宇宙から戦いは簡単には消えない。
そんな冷酷な現実も描いています。でも、
- 人間が「理想」を描き続けることのできる存在であり続ける限り、いつか、その「理想」は実現するかもしれない。
人間が「理想」描き続ける限り、そこには「明日への希望」が存在する、と。
- だって現実に、宇宙戦艦ヤマトが古代たちを助けにきたじゃないか。
こういう流れですね。
このように福井さんは、『宇宙戦艦ヤマト』によく寄せられる「戦艦なのに反戦」という言葉を、「戦争に反対するのに武器を持つ」、「戦争に反対するのに武器は捨てない」、という「理想と現実」をめぐる一般的な議論に置き換えたのかもしれません。
「戦争に反対するのに武器は捨てない」。もっと言えば、「捨てられない」。
確かにそこには、「人間性」の「矛盾」があります。平和を守るために、武器を持ち続けなくてはならない人間の矛盾。メタ的には、反戦メッセージを打ち出しながら、続編で「戦い」を描き続けてきた『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの「矛盾」でもあるのでしょう。
福井さんが「真正面から描いた」と胸を張る「矛盾」とは、このことを指しているのではないでしょうか。
おわりに
『2202』は、ここまで見てきたような矛盾をも、「人間性」として肯定しています。
「人間性」を持っているからこそ、人間は「理想」を胸に抱き続けることができる。
藤堂早紀もそう言っています。
そしてその「理想」を肯定できた時、人類は古代進を救うことができるのだ……ということも描きました。つまり、あのシーンは、人間が「現実」の名の下に抑圧し続けてきた己の「理想」がささやかに具現化したシーンだった、というわけです。
そもそも、「人間性」こそが『2202』の描く「愛」でした。
とすると、「人間性」を否定しないでいよう、というメッセージは、『2202』が企画書で掲げた「愛の復権」と極めて近いところにあると気づきます。
もちろん、「戦艦なのに反戦」という言葉を「戦争に反対するのに武器は捨てない」に置き換えたのだとしたら、その解釈の是非は問われるべきでしょう。
ですが、少なくとも「戦争に反対するのに武器は捨てない」という「人間性」が持っている矛盾については、『2202』は(福井さんが胸を張るように)「真正面から受け止めた」作品だったと言えるのではないでしょうか。
今日は、前回読んだインタビューで突如登場した「『戦争なのに反戦』という『矛盾』を『真正面から受け止めた』」という表現について、考えてみました。
一応、私の中ではある程度納得することができました。
ただ同時に、「戦艦なのに反戦」という言葉を考える上で、「戦争に反対するのに武器は捨てない」という角度から考えていくアプローチが唯一の正解とは思えません。
「戦争に反対するのに武器は捨てない」という人間が抱える矛盾を考える上では、『2202』のアプローチは一見に値するものですが、『宇宙戦艦ヤマト』が抱える「戦艦アニメなのに反戦」という矛盾については、他にも可能なアプローチが残されているように思います。
その点からすると、『2202』が「最新の決定版」とまで言える存在なのかどうかは、人によりけりなのかもしれません。