こんにちは。ymtetcです。
前回の記事「 『ヤマト2202』における「人間性」の「矛盾」」では、福井さんが語った「『戦艦なのに反戦』という『矛盾』」、そして『2202』が描いた「人間性の矛盾」に迫っていくことを試みました。
次の作業に進んでいきたいところだったのですが、前回の記事を読み直してみると、「人間性」についてはもう少し食い足りないポイントがあるなと思いました。
というのも、『2202』にはこんなシーンがあるからです。
テレサの声「星は、ただそこにあるだけ」
粒子のような無数の光点が瞬き、寄り集まり、黄金色のなにかに結晶してゆく。
テレサの声「人だけが、その存在に意味を与えられる。美しい、と感じる心をもって」
(「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』最終話『地球よ、ヤマトは……(仮)』第一稿」『シナリオ編』216頁、下線は引用者。)
最終話でテレサが語った「星は、ただそこにあるだけ」「人だけが、その存在に意味を与えられる。美しい、と感じる心をもって」。
人間性(ヒューマニズム)、すなわち『2202』における「愛」を肯定するセリフであることは理解できますが、どこか浮いている印象もあります。
「美しい、と感じる心」を『2202』のドラマ全体にどう位置づけるべきか。
この疑問が、私の中で残されていました。
今日はこれを考えてみたいと思います。
その手がかりは、意外にも藤堂早紀にありました。
脆く、壊れやすい心を持っているからこそ、人は理想を描くことができる。それが足枷になるなら、心なんか捨ててしまえばいい。ずっと、そう思っていました。でも、分かったんです。この脆く壊れやすい心が、人を人たらしめている。移り気で不確かで、でも、どこかで筋を通さずにはいられない。それが機械に替えられない、人の本質。時に自分で自分を壊してしまうほどに強い、人間にだけ与えられた、力の源だって。私も、人間でありたい。どんな運命が待ち受けていようとも、最後の1秒まで。
(『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第22話『宿命の対決!』、下線はymtetc。)
第22話、早紀は「心を持っているからこそ、人は理想を描くことができる」「脆く壊れやすい心が、人を人たらしめている」「それが機械に替えられない、人の本質」「人間にだけ与えられた、力の源」と語りました。
「心」とは「人間性」であり、『2202』が定義した「愛」です。
ここでも「人間性」を肯定するセリフが組み込まれていることに注目しつつ、さらに早紀のドラマを遡ってみます。
早紀:不要なものは排除し、使えるものはなんだろうと使う。効率的に、最速で勝利を。
真田:それが、G計画か……
早紀:いえ、G計画は──
新見:それでいいんですか? 藤堂艦長。お母さまのことを考えれば、あなたの気持ちは分かる。でも、本当のあなたは──
早紀:やめて。父も母も関係ない。それこそ不要な感傷よ、薫。力のないものは滅びるだけ。私たちはガミラス戦争でそれを骨身に刻んだ。何を失うことになっても、私は……。
(『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第19話『ヤマトを継ぐもの、その名は銀河』)
早紀:母は優しく、弱い人だった。優しさや人間らしさが人を殺すなら、それを捨ててでも……。
(略)
早紀:恐怖を克服するには、自らが恐怖になるしかない。波動砲艦隊も、時間断層による軍拡も。それが、ガミラス戦争で滅びを経験した人類の、結論。この残酷な世界で生きていくには、人は弱すぎる。
(『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第二十一話「悪夢からの脱出‼」)
早紀は、母親を死に追い込んだ「優しさや人間らしさ」(=「人間性」)を否定していました。そして、それを「捨ててでも(強くなる)」と言います。
であれば、母・千晶が自殺する前はどうだったのか。
(夏の風景。青空に草木や花が映える。)
早紀:きれいだね、ママ。
千晶:うん。早紀も大人になったら、このお花のように、優しい人になってちょうだいね。
早紀:うん!
(季節は秋、冬になり……地球に遊星爆弾が降り注ぐ。時に、西暦2193年。)
千晶:ごめんね、ママ、こんな残酷な世界にはもう……。
(『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第二十一話「悪夢からの脱出‼」)
幼少期の早紀は、このように描かれていました。
ここまでを読んで、「ピン」ときた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
このシーンでは、幼少期に早紀が持っていた「人間性」、すなわち
美しい、と感じる心
が描かれているのです。
藤堂早紀は実は『2202』の中でも珍しいほど、心の変化が順序立てて描かれているキャラクターでして、
- 「美しい、と感じる心」「人間性」を持っていた幼少期:第21話冒頭の回想
- 自殺した母親と「人間性」を否定している時期:第19話~第21話まで
- 「人間性」の大切さに気づき、「心」を取り戻した時期:第22話以降
という、3つの時期にわたる変遷が描かれています。藤堂早紀は、「美しい、と感じる心」の復権を描くためのキャラクターだったと言えます。
これを前回までの議論と加えて整理すると、『2202』が描いた「人間性」(=「心」、「愛」)とは、
- 何かを守るために戦いをやめない心
- 武器を捨ててでも戦いを、争いをやめようと叫ぶ心
- 目の前にただ存在しているだけのものを「美しい、と感じる心」
の三つでした(他にもあるかもしれませんが)。
最初の二つは古代進を介して、最後の一つは藤堂早紀のドラマを介して描かれていたものです。ですから、古代進の物語として『2202』を読み解いていこうとしていた私は、ついつい最後の一つを見落としてしまっていたのですね。
この三つの「心」は、全て人間が持つ「心」であり、人間の人間らしさ、「人間性」です。
早紀の母・藤堂千晶がそうだったように、あるいは古代進が第25話でそうだったように、その「人間性」は弱く、脆いかもしれないけれど、だからこそ人間は「理想」を描くことができる。第22話の早紀は、(早紀自身は意図していませんが)間接的に古代進の「人間性」も肯定している、と言えるでしょう。
そして、人間が自分の「理想」を認め、自分の弱さや脆さをも「人間らしさ」「人間性」として肯定できた時、人間は第21話で山南がヤマトを救ったように、第26話で人類が古代進を救ったように、自分の中のヤマトや古代進(「理想」)を救うことができる。
おおよそこんな感じです。
どちらもその時、「現実」の利益を守る上では救い出す必要のなかった存在として描かれていますから(「縁の力」で地球が救われたのはあくまで「結果論に過ぎない」)、第21話のヤマトと第26話の古代進は重ねられていたものと解釈しておきます。
このように振り返ってみれば、『2202』は全体を通じて「人間性」を肯定するように組み立てられていた物語だった、と言えるのではないでしょうか。
さて、これで終わりでもいいのですが、私としてはまだ食い足りません。
”『2202』はどのようにして「人間」の存在を肯定したのか?”という疑問がまだ残っています。
「構成メモ」の記述を読みます。
命は、人という知性体は、”想い”によって宇宙を識ろうとする。刻々と熱量を減らし、散逸してゆくばかりの宇宙は、人の”想い”に留められることで意味を見出される。星空は、誰も見る者がいなければただそこに在るだけ。人間だけがそれを美しいと表現し、星空に意味を与える。そうして定義された瞬間、星空は初めて存在する理由を手に入れる。人の”想い”をかきたてる無限のフロンティアとして……。
(「最終話の流れ(『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』構成メモ⑥」)『シナリオ編』286頁、下線は引用者。)
記事の最初に引用した、テレサのセリフの元となった部分ですね。
要するに、テレサが言うには、
- 「人間」は「人間性」を持っているが故に、ただそこに存在しているだけのものに意味を与えることができる。
とのことです。
ここでは星空が例として挙げられていますが、他にも『2202』は作中で例を挙げています。第21話冒頭の回想で藤堂早紀が「きれいだね」と言った花、あるいは第22話冒頭の回想で森雪が「奇跡」と語った「海」や「空」の存在が、それです。
星空も花も海も空も、ただそこに存在しているだけ。それを「きれい」と表現して、意味を与えられるのが「人間」だ、ということです。
「ただそこに在るだけ」。「ただ~だけ」とは、随分と言い切った表現だと思います。
この表現を通じて『2202』が強調したかったものは一体何なのか。
それは、人間が”星空や花や海や空の存在”を肯定する時、その存在が自分にとって「役に立つ」かどうかは関係ない、ということだと思います。
もちろん科学的に言えば、星空も花も海も空も、人間にとっては客観的に意味のある存在ですし、人間が自然環境の恩恵を受けていることも、間違いありません。
ですが、人間がこれらを「きれい」と尊ぶ理由は、必ずしも「恩恵をくれるから」ではない。『2202』はこの点を強調したかったのでしょう。
理由はない、ただ「そう感じた」だけだから……その非合理的な「感傷」こそが「人間性」だ、と言いたいわけですね。
そして、これを星空や花や海や空ではなく、人間に当てはめてみればどうか。そうすると、そこに「人間」の存在そのものを肯定する論理が浮かび上がってきます。
少し思考を『2202』の外に置いてみましょう。
人間には、”「存在する価値のない」人間がこの世に存在する”と考える癖があると思います。
「役に立つ」ことこそが人間の存在意義だと考えたり、「役に立たない存在」というレッテルを自己なり他者なりに張り付けて、その存在を排除しようとしたり(例:”役に立たない自分は生きる価値がない” ”役に立たない人間は生きる価値がない”)。
このような人間の癖に対して、「どんな人間にも存在する価値がある」と反論するのはただの「理想」論です。そんな「理想」は、なかなか「現実」になり得ません。現実世界には全ての人間を平等に豊かにするだけのリソースは存在しませんし、何より「(役に立たない存在を排除してでも)”成長”し、豊かな生活を築きたい」というのもまた、人間の本能だからです。
話を『2202』に戻しましょう。
福井さんはこんなことを言っています。
ところが、今は間違ったりぶつかったりすると「じゃああなたは終わりね」と平気で言われてしまう世の中。当時の古代進はいま現在、我々の胸の中でとても生きづらい思いをしているわけです。だから自分たちの中の古代進と向き合って「忘れたわけじゃないよ」と意思疎通できれば、日々生きる中でも違った風景が見えてくるんじゃないかな。
(不思議な縁が紡いだラスト、「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」羽原信義監督&シリーズ構成・福井晴敏さんインタビュー - GIGAZINE)
ここで福井さんは、”間違ったりぶつかったりすると『じゃああなたは終わりね』と平気で言われてしまう”現実世界に向けて、”「古代進」=「理想」”を忘れるな、と述べています。
そうすると、前回の記事で取り上げた「理想」を肯定する論理が、人間の存在そのものをめぐっても同じように『2202』に流れていたのではないか、と解釈することもできそうです。
ではこれを踏まえて、最後にもうひとあがきをしてみます。
『2202』は、人間を”ただそこにあるだけの存在に意味を与えることのできる生き物”だと述べました。星空や花や海や空を見て、ただ「美しい」と感じて尊ぶことができる。それが人間の本能(「人間性」)なのだと。
つまり、人間にとっては本来、「存在する価値のない存在」などない。
人間は「ただそこにあるだけ」の存在に価値を見出せる存在なのだから、「存在する価値のない人間」もまた存在しない。
こういった論理で、『2202』は人間の存在肯定をも試みていたのではないでしょうか。
おわりに
前回の記事の内容もそうでしたが、結局、「全員で武器を手放して平和に暮らそう」も、「どんな人間にも存在する価値がある」も、非現実的な理想論なんですね。
理想として語ることはできても、現実にこれを具体化することはなかなかできない。
だから、『2202』で描かれた筋書き、第21話でヤマトを、第26話古代を救い出すという筋書きは、非現実的という意味ではファンタジーなんです。
どちらも現実的な選択肢ではありません。合理的な選択肢でもありません。
「だが、その『理想」を語ることができるのがフィクションなのだ」……的な発想が、福井さんにはあるのでしょう。
だから自分たちの中の古代進と向き合って「忘れたわけじゃないよ」と意思疎通できれば、日々生きる中でも違った風景が見えてくるんじゃないかな。
という福井さんの言葉は、言い換えるなら「『2202』を通じて観客に『理想』を思い出させることができれば、観客の『現実』に対する見方も変わってくるんじゃないか」ということですから。フィクションを通じて、受け手の世の中に対する見方を変える。極めて作家らしい、福井さんらしい発想だと思います。
さて、こんな感じで、『2202』はどこか一つのテーマに収斂する物語として構想されているような印象を私としては抱いています。本作の様々な事象が一つのところにまとまるとすれば、それはやはり「人間性」でしょうけど。
前回と今回、少し長めの記事になりました。分かりにくかった点もあるかもしれませんが、このレベルでの言語化が、今私にできる精一杯といったところです。
この辺りをもっとシンプル・簡潔にまとめることができれば、その時が『2202』を卒業する時なのかもしれません。まだまだ鍛錬が必要ですね(笑)。