ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

スランプではなく/#1『宇宙戦艦ヤマト2199』を観る メモ書き

こんにちは。ymtetcです。

今日は先週末における『2199』鑑賞時のメモを再構成し、公開する予定でした。

が、なんと体調を崩してしまいまして……

書きかけです(笑)。

皆様も何卒、体調にはお気をつけくださいね。

回復したら書き直したいと思います。(リハビリがてら、書き直しました。)

そろそろ『Λ』第3話も公開です。楽しみに待ちたいと思います。

 

(以下、書きかけです)

宣言通り、先週末は『宇宙戦艦ヤマト2199』を観ました。そこで今回は、視聴時に書いたメモ書きを、ブログに掲載したいと思います。ですので、決して大したものではありません。

ただし、注意していただきたいことがあります。

腰を据えて『2199』を再鑑賞して、驚いた点が二つありました。

一つが、セリフをほぼ暗記していたこと。何回観てるんだ、って話ですよね。でも、これは重要ではありません。

もう一つ、意外なほど「物足りない部分」が気になってしまったことに驚きました。

本文のメモ書きがその「物足りない部分」への言及であることに留意していただきつつも、まずはその理由を考えなくてはなりません。

なぜ、日頃『2202』の「よくできている部分」を気にしている私が、『2199』では「物足りない部分」を気にしてしまったのか。

答えは、↑の命題そのものにあります。

すなわち、鑑賞の前提が異なるのです。

『2202』について、私は先日こう言いました。「映像作品としては高く評価していない」と。これが私の『2202』語りの前提です。

一方『2199』は全く違います。私は『2199』を映像作品として高く評価しています。

分かりやすく言えば、『2202』は0点からの加点法で観ていて、『2199』は100点からの減点法で観ています。

宇宙戦艦ヤマト』という存在は、とても興味深いですね。私は『宇宙戦艦ヤマト』でなければ、こんな手間はかけません。100点のものは100点のものとして「よかったね」で軽く済ませますし、0点のものにわざわざ執着はしません。一度深みに入り込むと、人生とは切っても切り離せない存在になる。不思議な存在です。

さて、今日は『2199』第一話の鑑賞メモを再構成してお送りします。

2012年当時はスクリーンにへばりつく勢いで鑑賞していた『2199』ですが、今改めて本作を眺めると、かなりの部分が手探りの中で作られていたことに気付かされます。

 

(以下はメモ書きでしたが、書き直しました。)

『2199』第1話ですが、特にAパート部分において、セリフの数と演出のテンポが一致していない印象を受けました。

例えば旧作『宇宙戦艦ヤマト』と同じように演出するのであれば、冒頭の冥王星における戦いは、どちらかと言えば”静”の演出の方がメインに据えられるはずです。

あるいは現代アニメ的にスピード感とスペクタクルをつくり出すのであれば、個々のセリフ間を詰めて戦闘シーンは派手にカメラを動かし、ミリタリー用語運用の”かっこよさ”や、地球艦隊が殲滅されてゆくパニック感も強調されるでしょう。

『2199』の冒頭にはその双方が中途半端に盛り込まれています。ここが、私が「迷い」を感じたポイントです。

結果的には、現代アニメとしてはやや退屈な(いまいち”乗り”きれない)一方、ヤマトとしてはむしろ「軽い」と言われてしまう、そんな現象が発生しやすい演出となってしまったように思います。

このような「迷い」を感じた部分は、Bパートにもあります。

Bパートは構成上明らかに古代進を主人公としているのですが、この古代の心情が分かりにくい。「陽動作戦だった」と聞いた時、沖田の謝罪を受けた時、コスモゼロで出撃することを決めた時、武装が外されていることに気づいた時、コスモゼロが不時着した時と、古代の心情は兄の未帰還をめぐって揺れ動いていたはずです。ところが、それをほとんどうかがい知ることができない。個々のセリフの言い回しの「それっぽさ」はありますが、その分、淡々とイベントをこなしているような印象を受けました。

推測でしかありませんが、『2199』は本当に「迷い」を抱えていたのだろうと思います。ここでは「現代アニメとしてこれでいいのか」「ヤマトとしてこれでいいのか」といった、いわゆる観客の視点にばかり注意が向いていたのではないでしょうか。その結果、人間・古代進の心情がどうとかという本質的な問題が演出から欠けてしまった、と。

ですが、例えそうだとしても、仕方のないことだと思います。新シリーズの第一話。そして、二度とないかもしれない『宇宙戦艦ヤマト』のリメイク。ヤマト・アニメの前作だった『復活篇』はファンから批判を受けました。迷いがない方がおかしいです。

私の記憶が正しければ、こういった迷いは後半になってくるとほとんどなくなっていったように思います。その分、改めて第一話を見ると気になる箇所が目立つのかもしれません。

 

 

ちなみに古代進の心情については、むらかわさんのコミカライズがこの点を徹底的に補完しています。

むらかわさんのコミカライズが秀逸なのは、構成を入れ替えているところです。

単に、本編の描写に古代の心情(「走りたい」など)を付け足すのであれば、もちろんそれは素晴らしい本編の補完なのですが、それ以上のものでもありません。

『2202』シナリオを読んで本編の改善案を出したところで「尺足りなくない?」となっては意味がない、これと似たようなものですね。

むらかわさんはこんな手法をとりました。まず、冥王星での戦いの後半部をカットする。古代守未帰還の真相を読者に明かさないことで、読者を古代進と同じ立場に置くことができているわけですね。そして、第一話の尺問題はこれで解決です。

ちなみに冥王星での戦い後半部は、エンケラドゥスに不時着したゆきかぜの記録を通して、古代が知るという形で描写されます。ここも秀逸ですよね。古代が兄の最期を知ると同時に、読者もそれを知るわけです。クルーの『銀河航路』を受けて進が2番を口ずさむという演出もよく、実は第一章公開時に議論の的となった話題のひとつ”『銀河航路』唐突すぎ問題”の解決策にもなっています。

尺問題でいえば、第五話を再構成する必要はありそうですが。

それにしても秀逸な構成だと思います。