ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

リメイク・ヤマトに存在した4つの方向性

こんにちは。ymtetcです。

最近『2199』を振り返りながら、考えることがありました。

これまで私は、ともすれば、

  • ヤマトファン向けに旧『ヤマト』風のリメイクを作る

か、あるいは

  • 新規層獲得のために現代風のリメイクを作る

か。この二者択一で考えていたんですね。

ですが、それだけでは足りないことに気がついたのです。

すなわち、『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)をリメイクする際には、上記二つの方向性に加えて、

  • ヤマトファン向けに現代風のリメイクを作る
  • 新規層獲得のために旧『ヤマト』風のリメイクを作る

これらの”逆”の方向性もあり得るのだ、ということです。

 

発端は、先日たまたまテレビで目にした『銀河英雄伝説 Die Neue These』(いわゆる『ノイエ銀英伝』)でした。

銀河英雄伝説』は私にとって全くの守備範囲外でしたが、『宇宙戦艦ヤマト』ファンですから興味がないわけではありません。『ノイエ銀英伝』の存在も、当然『2202』なんかの上映前に予告編を観てきたわけですから、関知はしておりました。

こんな状況ですから、いきなりEテレで本編を観たところで、内容の理解はできません。できませんが、その一方で興味が湧いてもきました。

「絵も綺麗だし、いい機会だから『銀英伝』履修してもいいかもな」と。

その時、ふと思ったんです。

『ヤマト』に興味を示す"新規層"も似たようなものなんじゃないか、って。

銀河英雄伝説』は私にとって、知らない作品ではありませんでした。全く観たことはありませんでしたがタイトルは知っていましたし、漠然としたイメージは持っていたんですね。政治ドラマがあって、有能な司令官がいて、艦隊戦があって、なんとなく上品で硬派な雰囲気で……。そしてその時偶然観た『ノイエ銀英伝』は、(ファンからすると『2199』のように不満を持っている人もいるのかもしれませんが)概ね私が『銀河英雄伝説』に抱いてきたイメージを満たしていました

極端な話、『ノイエ銀英伝』が例えばキャラクターの半分を女性にして、キャッキャウフフ(死語)しながら艦隊戦を繰り広げるライトな作風に作り変えられていたとしたら、私は少なくとも『ノイエ』には興味を示さなかったでしょう。

 

話を『宇宙戦艦ヤマト』に戻します。

宇宙戦艦ヤマト』のタイトルの知名度は未だ、かろうじて衰えてはいないと思います。『宇宙戦艦ヤマト』と聞いて、「ああ、はいはい」と思える人はまだたくさんいるでしょう。

とすれば、『宇宙戦艦ヤマト』を観よう!と考える新規層の動機は、「春アニメだから観よう」などといった他のアニメと同じ文脈ではなく、「この機会だから『宇宙戦艦ヤマト』を観てみよう」の方が強く、大きくなってくるのではないでしょうか。

宇宙戦艦ヤマト』をリメイクする上では、『宇宙戦艦ヤマト』と聞いて興味を示すであろう新規層が抱く”『宇宙戦艦ヤマト』のイメージ”を外さないことも大切なのかもしれません。宇宙戦艦ヤマト』のタイトルが持つ”名作”というイメージと、「リメイク」が持つ”原作をもう一度作り直す”イメージを掛け合わせる、というわけです。

このように考えてみた時、果たして『2199』はどこまで、この需要を満たすことができたのでしょうか。

私はこの点について、『2199』はかなりギリギリのところで堪えていたか、あるいは紙一重でその需要を満たすことはできなかったかも……という問題意識を抱えています。

 

というのは『2199』の場合、冒頭で掲げた3つ目の方向性、

  • ヤマトファン向けに現代風のリメイクを作る

この方向性が強かったように思うんですね。

確かに女性キャラクターが増えて、森雪一人だった旧作よりは現代アニメ的な作りがされている。設定は整理・拡充されている。コミカルなシーンの描写もセリフ回しも、旧作とはうって変わった現代アニメ調で描かれています。

本来ならば、こういった改変には”『宇宙戦艦ヤマト』を現代の観客に観てもらえるように作る”という目的があったはずです。

ところが『2199』の場合、”この改変は現代の観客に観てもらえるようにするための改変なんだ”という言葉だけがヤマトファンの間に共有されて、その内実、単にヤマトファンが「よし、現代風になったな」と満足する機能しか果たしていなかったように思えてなりません。

百合亜のラジオなんかも象徴的だと思います。劇中で「真赤なスカーフ」を流したいから、ネットラジオを展開したいから、といった背景があった百合亜のラジオ。ですが、どこかで「女の子が艦内ラジオなんて最近のアニメっぽいよね!」などとヤマト世代が自己満足するための機能しか果たしていなかったのではないでしょうか。本来であれば内田彩さんのファン層に、(あるいは音泉の視聴者層に?)『宇宙戦艦ヤマト』のファン層を広げていくためのコンテンツではなかったのか? と。

 

『2199』は非常にクオリティの高いアニメーション作品でした。

その一方で、作り手もファンも、「現代のアニメファンにも観てもらえそうな『宇宙戦艦ヤマト』を作る」「現代のアニメファンにも観てもらえそうな『宇宙戦艦ヤマト』が存在する」ことそのものに満足してしまい、本来作品を届けたかった対象である「現代のアニメファン」なる存在に本当に作品が届くのか、実際に届いたのかについては全く検討もされず、どこか意識のかなたに忘れ去られていたように思います。

先ほど述べた「新規層こそ旧作風の『宇宙戦艦ヤマト』を求めていたのでは?」ということは、ただの憶測にしか過ぎません。そこまで極端な話はないでしょう。

ただ、『宇宙戦艦ヤマト』のタイトルが持つ知名度と、世間一般人がもつ「イメージ」は、まだ消えてはいません。

だとすると、宇宙戦艦ヤマト』を他のアニメーション作品と同質化していくことには、あまり意味はないように思います。

何故ならば、宇宙戦艦ヤマト』が全くフラットな視点で新しい観客層に見てもらえるとは到底考えられないからです。

 

今回提示した4つの方向性は恐らく、『2199』のような純粋な『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)のリメイクにしか使えません。『2202』(『2199』続編)や『2205』(『新たなる』リメイク)には使えないものだと思います。

とすれば、『宇宙戦艦ヤマト』が(福井さんの定義する)「真の復権」、少なくともファン層の大幅な拡大を果たすためには、再度『2199』『宇宙戦艦ヤマト』をリメイクするしかありません。

それは時間的には途方もなく遠い話になりますし(これからの10年で『2199』を超えるリメイクを作れるとは思えません)、時間的な壁を乗り越えたとして、その時『宇宙戦艦ヤマト』への需要がある可能性はかなり低い。

その意味では、『2199』を考えることには実はあまり意義が見出せません。

『2202』は『2199』よりも(ムーブメントとして)劣っている分、”『2205』で『2199』のレベルにまでムーブメントを復活させるにはどうすればいいか?”といった議論の俎上に置けば、これを考える意義が見出せます。

良くも悪くも「旬」の過ぎている『2199』ではありますが、新世代のクリエイターが再度のリメイクをする微かな可能性を信じて考え続けることも、悪くはないかもしれませんね。