こんにちは。ymtetcです。
『2202』ではしばしば、ファンの間で「考えるな、感じろ」という言葉が引用されました。元ネタは映画『燃えよドラゴン』のセリフであり、その解釈は既に分析の対象となっていますが*1、今現在、日本ではその意味が独り歩きしている感じはしていますね。
『2202』では、設定のディテールの甘さから『2202』を批判する議論に対して、いわゆる擁護の立場から「考えるな、感じろ」の言葉が持ちだされていました。また後述しますが、『2202』で脚本を務めた岡秀樹さんが、第四章第13話の描写に対して「理屈じゃない、感じろ」という言葉を引用したことも、ちょっとした議論の対象となりました。
このように、『2202』にはどこか「考えるな、感じろ」でないと楽しめない、「考える」人を排除するような雰囲気が漂っていたと言えます。
そこで今日は、「考える」ことと「感じる」ことの双方を私ymtetcがどう扱っているのか、一般論として私見を述べたいと思います。
「感じる」、そして「考える」。
映画やアニメ、ドラマなどフィクションの娯楽作品は様々にあります。ですから私も、「考える」「感じる」については色々と試してきました。
結果、私の中では結論が出ました。
まずは「感じる」、そして、そのフィーリングの理由を「考える」。
この手順こそが、私の中ではベストな流れでした。
先に「考える」ではつまらなかった『天気の子』
理屈で作品を捉えることは、理屈さえ知っていれば誰にでもできます。
もちろん理屈を知ることが一番大変で、例えばSF設定や科学設定の理屈を把握して、『2202』などにツッコミを入れている人々には頭が下がります。
ですが、単に作品を楽しむ上での理屈を知るだけなら難しくありません。どのタイミングまでに主要キャラクターを揃えていなければならないか、とか、おおよそ半分で厄介なことが起こる(いわゆる「ミッドポイント」論)とか、そんなレベルであれば簡単です。故に、これを頭に入れて初見時の鑑賞に臨むことも可能なのです。
ところが、これが本当に楽しくない。
『天気の子』という映画が昨年ありました。この時私は、初見時から「考える」を全面に打ち出して鑑賞をしました。『天気の子』はしばしば画面の明るくなる映画でしたから、その間にアナログ式腕時計をチェックするなどして、一体どのタイミングで何が起こるのか、考えながら映画を観ました。
驚くほどに楽しくなかったんですね。
新海誠監督の近作はオーソドックスな映画の構成を採用しており、
『天気の子』DVD/BD発売記念で、もう一つお蔵出しを。ネタバレ全開ご注意。プロット段階での物語構成表です。『天気の子』では脚本作業前に、このような表を作りながら物語の構成を練っていきました(完成した映画とは一部異なっています)。懐かしいなあ。 pic.twitter.com/X4EA6SU3Ln
— 新海誠 (@shinkaimakoto) 2020年5月27日
そこが私も好きなところなんですが、だからこそ、「考え」ながら観てしまうと展開がある程度読めてしまう。ですが新海作品の場合、本来なら先の展開が読めた程度で魅力の落ちるものではありません。それなのに作品の特色である背景美術の美麗さや、力を入れているはずの音楽などに意識を向けることができないまま、ただ中盤以降は「最後に主人公はどんな決断を下すのか?」ばかりが気になってしまったわけです。
映画は総合芸術と言われますが、これでは、果たして総合芸術としての映画を楽しんだと言えるのか? という話ですよね。
まず「感じる」ことが大切
故に私にとっては、まず「感じる」ことがとても大切なのでした。その方が性に合っているんです。
まず「感じる」。フィーリングですよね。言い方は悪いけれど、作り手の作劇に付きあってあげることがまず大切。悲しい思いをしたり、熱く盛り上がったり。感動をすることもあれば、心が冷めきっていることもあると思います。このフィーリングが、このブログで言えば「雑感」や「第一印象」となります*2。
そして家に帰った後は、フィーリングの理由を「考える」。「なぜ感動したのか」「なぜつまらなかったのか」。これを突き詰めると、いつかどこかのタイミングで、自分の中で腑に落ちる瞬間がやってきます。
この「感じる」→「考える」の過程で、私は作品に対する全体的な評価を確定させていくわけです。
「考える」過程で感動が深まったり、むしろ失望したりすることもあるでしょう。それでも、私は初見時のフィーリングが何より大切なのだと考えています。初見時に限っては、「考えるな、感じろ」も当てはまるのではないでしょうか。
ずっと「考えるな」ではない
ですが、それは決して「考えるな」が全ての局面で当てはまるということではありません。
あくまで、初見時に「考えすぎない」ことを私は徹底しておきたいです。ですから時間が経てば、むしろ「考えなければならない」とも思っています。
娯楽作品は多かれ少なかれ「考えられて」作られています。ならば、「考えられて」鑑賞されるのは当然だと思います。『2202』を擁護する文脈で「考えるな、感じろ」を繰り返し持ちだすのは、むしろ『2202』に対して失礼ではないかと思うのです。
岡秀樹さんの発言について
話が『2202』に戻ってきましたので、最後に先述した岡秀樹さんの発言について考えてみます。
岡さんの発言とは、これです。
「機動甲冑の数、多過ぎだろ!」と誰もが突っ込むカットだが「そこには目を瞑れ。理屈じゃない。感じろ。」という声も同時に心の中に聞こえてくる。脚本には一切無いこのくだりが大好きで俺は毎回泣いています。 https://t.co/aW3oRvWuCN
— 岡秀樹 (@hidekiokahideki) 2018年2月23日
岡さんが政治家ならば、見出しに大きく「理屈じゃない。感じろ。」という言葉だけがピックアップされて炎上するところですが、これはいわゆる「印象操作」です。
というのも岡さんの発言は、一観客としての視点、傍観者としての言葉なんですよね。
このツイートには四つの内容が含まれています。
- このシーンは「機動甲冑の数、多過ぎだろ!」と誰もが突っ込む(岡さんも突っ込みたくなる)もの。
- 岡さんの心の中には「理屈じゃない。感じろ。」という声も聞こえてくる。
- このくだりは脚本には一切無い。
- 岡さんは毎回泣いている。
四つの内容の中で、作り手だからこそ提示できる情報は「脚本には一切無い」の部分だけ。他は全部、自分以外の人間が作った作品に対する(かのような)ツッコミと感想なんです。
つまりこのツイートは、読んだ瞬間に想起するような「作り手が『考えるな、感じろ』って言ったぞ!(だから『2202』は云々)」みたいな話ではなく、単なる個人的な感想だったのではないでしょうか。
実際にこのシーンは脚本には一切なく、しかも岡さんの場合、そもそも『2202』自体が自分の書いたアイデアをほぼボツにして成り立っているところ、福井さんの「助手」であるところ、ゼロ稿と「文芸」担当であるというところもあって、こういった傍観者的なコメントになるのも仕方ないと思います。
仕方ないというよりは、傍観者的に軌道修正を加えていくのが岡さんの仕事内容でもあったわけですからね。