ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

『ヤマト2202』の出現をめぐって

こんにちは。ymtetcです。

今日は『ヤマト2202』が出現した背景・目的・意義について、私の考え方を改めて整理しておきたいと思います。

最近では「Not my mulan」の動きもありましたが、『2202』は『2199』以上に「わたしの『宇宙戦艦ヤマト』ではない」と言われた作品でもありました。また『宇宙戦艦ヤマト』作品の系譜に注目する中で、改めて整理する必要性も感じました。

 ①なぜ『ヤマト2202』は出現したか

『ヤマト2202』は、いかなる背景のもとに出現したのでしょうか。

本作の立役者は、西﨑彰司Pとその周辺の人々(古川寛高Pなど)だと言っていいでしょう。そして彰司Pは明言こそしませんが、『2199』にどこか批判めいた言葉を寄せています。『2202』は『2199』とは違う、と述べた上で、彰司Pはこう述べたのです。

ヤマト好きが作品を作るのはいいが、あまり作品への愛が強すぎると設定やリアリティにばかり凝るようになり、ドラマがおろそかになる。だからそうならないために、福井晴敏を起用するのだ。

(要約)

ここからは、どこか『2199』に対する批判的な視線がうかがえます。こういった背景が福井さんの起用に繋がり、『2202』の作風に繋がっていたことは、福井さんの「スタッフを変えるということは違う路線の作品をやれということですよね」との発言からも覗き見ることができます。

②『ヤマト2202』は何を目指したのか

では、そんな『ヤマト2202』はどんな作品を目指していたのでしょうか。

前節を引き継げば「彰司Pを満足させる作品」だったと言えそうですが、ここでは福井さんの思想に目を向けます。すると、『ヤマト2202』が目指していたのは「ヤマトの真の復権」だったと言えそうです。

”愛”は決して無力でも、凶器に転じる危険な言葉でもない。過酷な現実と折り合い、時に修正を促すための力――ヒューマニズムの極致として、我々一人一人が強く意識していかなければならない、それこそ生物学的な本能として与えられた力なのだということの再話。自らが語り、自らが壊してしまったメッセージを再び語り得た時、ヤマトの真の復権が為されるものと確信します。

(『シナリオ編』220頁。)

この「ヤマトの真の復権」は、二つの側面を持っています。

一つはコンテンツ的な「復権」です。

G:
「2202」の製作発表会が行われる前、2016年3月に制作に関するメッセージが発表されました。そこで福井さんは「自らが語り、自らが壊してしまったメッセージを再び語り得た時、『ヤマト』の真の復権が為されるものと確信します」と書かれていました。「2199」は昨今のアニメ作品としてはかなりのヒットだったと思いますが、メッセージの中で「真の復権」と書かれているということは、復権はなっていないとお考えということでしょうか。
福井:
また例え話になりますが……合コンに行ったとしましょう。アニメとは全く関係のない、地域コミュニティで行われる街コンみたいなものでもいいです。その場で「宇宙戦艦ヤマト」を話題にできますか?
G:
……いやー、よほど趣味が合えば別かもしれませんが……。
福井:
もちろん、その話題に食いつく人だけを釣り上げるという使い方もありますが、まあ、できませんよね。でも、当時の「宇宙戦艦ヤマト」というのは、知っている人なら「見た?」「見た!」という感じだったんです。それこそが「社会現象」ということだし、「さらば」の観客動員数400万人という数字なんです。
G:
「今日のジャンプ読んだ?」とかのノリですね。
福井:
そうやって考えてみると、「さらば」以降に作られた完結編などを含めて、復権はされているでしょうか。一度上った高みまで再び上り詰めて、そこを越えなければ。少なくとも、同じところまで達しなければ「復権」とは言えません。

今この時代に作る意味がある「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」シリーズ構成の福井晴敏さんにインタビュー - GIGAZINE

このインタビューの構成を考えた方は鋭いですね。『2202』と出会った時、「『2199』では不十分だというの?」と、我々が真っ先に抱いたであろう疑問に切り込んでおられます。

これに対して、福井さんは「合コン」を例に出して『2202』の目指す「復権」を述べました。『宇宙戦艦ヤマト』はかつて社会現象になった。社会現象になる、とは、今で言うなら「合コン」のような場で「あれ見た?」と言っても恥ずかしくないような作品になるということだ、と。

福井さんが面白いのは、『2199』(や『復活篇』)だけでなく、『さらば』以降の『完結編』までの『宇宙戦艦ヤマト』をも含めて「復権はなされていない」と考えているところですね。これは、「だから『さらば』をリメイクするのだ」という『2202』の存在意義そのものに繋がってくるわけです。

このような、もう一度日本社会において「みんなのもの」として受け入れられるような『宇宙戦艦ヤマト』を作る、そういった意味での「復権」が『2202』の目指したものだったと言えそうです。

さてもう一つの「復権」は、思想的な「復権」です。

第一作の第24話で提起され、『さらば』で花開き、旧作の後期作品で繰り返された「愛」。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズ作品の大部分を支配した言葉でした。

『さらば』の「愛」が日本社会に「愛ブーム」を引き起こした一方、そのムーブメントは急速に終息していったと福井さんは指摘し、その理由をこう語っています。

80年代を迎えて、後のバブル経済に至る大量消費社会への道筋をつけた日本社会が、どんなムーブメントも驚くべき速度で消費し尽くすようになっていたというのが一つ。濫用されすぎた”愛”という言葉が求心力を失い、需要者たる若者たちをシラケさせてしまったというのが一つですが、そのどちらの現象も、率先して牽引したのがあの艦――我々に”愛”という言葉の深さと重さを教え、ムーブメントの立役者となったはずの艦でした。

(『シナリオ編』219頁。)

福井さんの解釈によればこうです。

宇宙戦艦ヤマト』シリーズは「愛」ゆえに成功し、「愛」ゆえに衰退した。「愛」のムーブメントを巻き起こした作品である一方、「愛」のムーブメントを担っていた若者たちを急速に”シラケさせた”作品でもある。

『新たなる旅立ち』『永遠に』世代を自称する福井さんらしい分析です。

福井さんはこのような問題意識の元、「愛」を再び真正面から取り上げて、2010年代のドラマとしてこれを再構成しようと試みました。それによって、『ヤマト2202』は思想的な面で「『宇宙戦艦ヤマト』=愛の復権」を達成しようとしたわけです。

我々が今一度”愛”をテーマに据える根本理由は、今という時代において、かつてヤマトが発信した”愛”の再定義と復権こそが急務であるという確信に他なりません。

(『シナリオ編』220頁。)

③『ヤマト2202』への想い

このようにして出現した『ヤマト2202』を、一体どう評価すべきでしょうか。

まずは彰司さんの思想に目を向けます。

設定やリアリティに凝るあまりドラマが不十分になる、という言葉が『2199』を指しているとしたら、私は少し憤りを覚えます。そんなスタンスで「続編」を作って欲しくはないからです。

ただ一方で、『2199』に対する批判的な分析としては、必ずしも的外れとは思いません。確かに、『2199』が「一つのドラマを徹底して描くこと」より設定・リアリティに重点を置いていたのは、紛れもない事実だと考えます。彰司さんがプロデューサーとして作品に注いでいた想いや考えは理解できる一方、道義的な観点から、『2202』が「『2199』の続編」になってしまったことへの疑問・モヤモヤは残り続けます

次に、福井さんに目を向けます。

「『2199』の続編」として『2202』が誕生したことへのモヤモヤが今回改めて思い起こされた一方、福井さんを起用した意義はやはり大きいと考えます。

これ以前に『ハーロック』をやっていたとはいえ、やはり福井晴敏が『ヤマト』をやるのは少し違和感があります。「ヤマトの人」ではないからです。ですが、違和感があるからこそ、やる意味があったと今でも思っています。

西﨑義展、という旧作『ヤマト』を象徴する人間を失い、松本零士さんもどうやら戻ってきてはくれない(戻ってくることはできない)今の『ヤマト』には、「ヤマトファンではない人間」の冷酷な視線が必要だったと考えます。「ヤマトファン」だけが作品を担えば、コンテンツは蛸壺化してしまうでしょう。その意味では、「ヤマトファンが作品を作るのはね……」といった旨を語る上述の彰司Pの発言にも部分的には賛同できますし、結果として福井さんは極めてドライに『2202』を作った。結果、『シナリオ編』が残ったわけです。これは大きな意味のあることだったと思います。

かつて私は、「『2202』は『2199』と『さらば』をかけあわせているから興味深い」と考えていました。その想いもなくなったわけではありません。ただ、『2202』に対して考えれば考えるにつけ、あるいは『2199』に改めて向き合うにつけ、どこか、『2202』が「『2199』の続編」として作られたことへのモヤモヤも拭えなくなってきています

その一方、やはり福井晴敏を起用したことへの興味深さは揺るがないわけで……。

この、ある種の二面的な理解と想いが、今の私の『ヤマト2202』へのスタンスである、と今回は総括できそうです。