こんにちは。ymtetcです。
現在の『宇宙戦艦ヤマト』は漫画『スターブレイザーズΛ』・映画『ヤマトという時代』・小説『アクエリアス・アルゴリズム』と多様化していますが、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』までは、『2199』に始まる「リメイク『ヤマト』」の時代でした。
『2199』や『2202』はどちらも「リメイク」と銘打っている以上、物語の立脚点は常に旧『ヤマト』作品にありました。すなわち、両作品の物語を作り上げたシリーズ構成の出渕裕さん、福井晴敏さんは、どちらも旧『ヤマト』作品に向き合った上で、新『ヤマト』を作ったことになります。
この出渕さんと福井さんの旧『ヤマト』に対する向き合い方は(その良し悪しは別にして)異なるものだったと考えます。しかしながら、両者の作風の違いは多岐にわたります。今日は概念モデルのようなものをイメージしながら、旧『ヤマト』に対する向き合い方の違いを仮説的に説明してみたいと思います。
〇『宇宙戦艦ヤマト』の「A」と「B」
今日のお話で繰り返し使うことになる「A」と「B」の概念について、まずは説明しておきましょう。これらは議論の前提として仮定するもので、必ずしも実態を反映したものではありません。
まず、リメイク『ヤマト』の作り手と観客は、意識的にも無意識的にも「『ヤマト』はこうあるべき」との考えを持っています。これまで「ヤマトらしさ」などとも言われてきたものです。今日はこれを「AとB」の対立軸になぞらえてみます。
すなわち、『宇宙戦艦ヤマト』をめぐっては「Aこそが『宇宙戦艦ヤマト』」「Bこそが『宇宙戦艦ヤマト』」といった対立する二つの考え方が無数にある、と仮定してみましょう。例えば、
- 「サイエンス・フィクション(SF)こそが『宇宙戦艦ヤマト』」
と、
といった具合に。ここでは、サイエンス・フィクションが「A」、スペース・ファンタジーが「B」にあたります。このように、AとBには様々な対立要素を代入することができます。概念モデルとは、そういうことです。
さらにもう一つ、仮定を加えてみます。
対立するAとBを(無意識的・意識的に)支持している観客の数は「正規分布」で表現できる、と仮定してみましょう。このサムネイルのイメージです。
左がA、右がBだとしておきます。つまり、AやBを極端に信奉している観客は少数派であり、AやBにやや寄っている(やや支持している)観客はより多く、どちらでもない立ち位置をとる観客が最も多いという仮定です。
『宇宙戦艦ヤマト』には「AとBの対立」が無数に存在している。そして観客は、AとBの対立軸の中で正規分布をしている(極端な意見を持つファンは少ない)。これらは必ずしも実態を反映したものではありませんが、今日はこの概念モデルをもとに、出渕さんと福井さんのアプローチの違いについて考えていきましょう。
〇出渕裕のアプローチ
出渕さんのアプローチは「最大公約数」だと言われます。今日はこれを、AとBの対立軸に当てはめて説明してみます。
出渕さんのアプローチは、いわば「A」と「B」の間に立つものです。出渕さんは「A」と「B」、そのどちらも認めて、中央に自らのポジションを定めます。中央に自らのポジションを定めながら、AとBの双方に目配せをすることで、自分が作る『ヤマト』の支持を幅広く固めていくのが、出渕さんのやり方です。
正規分布の「山」で頂点となっている部分から、なだらかに下っていく双方に向けて支持を拡大していく。こういったイメージですね。
しかし、この「山」全てを網羅することは一つの作品では不可能です。
ゆえに、AとBを極端に支持するファンから批判されながらも、ABのどちらにも加担しない、あるいはAとBの双方にそれほどこだわりをもたない大多数の幅広い観客には受容される『宇宙戦艦ヤマト2199』が誕生したと考えます。
これが「A」と「B」の概念モデルから考える出渕さんのアプローチです。
〇福井晴敏のアプローチ
福井さんのアプローチは「賛否両論」だと言われます。今度はこちらを、AとBの対立軸に押し込んでみます。
福井さんは出渕さんと違い、AとBの対立を仲裁してはくれません。福井さんはまず、AとBの対立に対して冷徹な視線を向けます。間に立つようなことはしないのです。
AとBの対立を上から見下ろした福井さんは、一体AとBのどちらが『宇宙戦艦ヤマト』をヒットさせた要因なのか?を比較し、どちらか一方を選び取ります。
例えばここでは、Bの方を選択したとしましょう。福井さんは、Bに自らのポジションを定めます。そして、そこから全体に向けて「Bこそが『宇宙戦艦ヤマト』なのだ」と宣言します。Aの立場にある観客が激怒するのは当然のこと、中央に位置する大多数の観客も戸惑いを隠せません。反面、Bの立場にある観客は熱烈に福井さんを支持します。
そして、福井さんの真骨頂はここからです。福井さんは、自らの語りと(Bの作品として)筋が通っている脚本の説得力を武器に、中央に位置する大多数の観客を動員しにかかります。「Bこそが『ヤマト』」「Bだから『ヤマト』はすごかった」と言って、正規分布の「山」を切り崩していくのです。「山」の頂点を形成していた人々は、「『宇宙戦艦ヤマト』ってこうだったんだ」と”意味を再発見”したり、「福井は何も分かっていない」と怒りをあらわにして、Aの方へと去っていったりします。
こうすることで、B極端の観客に信奉され、A極端の観客に否定され、中央からBよりの観客に熱烈に支持され、中央からAよりの観客に痛烈に批判される『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』が誕生します。
これが、「A」と「B」の概念モデルから考える福井さんのアプローチです。
〇おわりに
今日は概念モデルから、出渕さんと福井さんの旧『ヤマト』に対する向き合い方を対比してみました。出渕さんと福井さんのアプローチの違いは、以前もお話していた話題かと思います。仲裁型の出渕さんと、牽引型の福井さん、といった感じですかね。ただ、お二人にもそれぞれ、観客を自分流の作品に引っ張っていった部分や観客の共通理解を押さえていった部分もあると思いますので、全ての局面にこのモデルが当てはまるわけではないと思っています。
本来であれば視覚的に表現できたらよかったのですが、スキルの関係上ひたすら文字で表現することになりました。全てに目を通していただいた方、ありがとうございます。たまには、こういった形の説明をしてみたかったのです。