ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

「戦艦大和らしさ」から見る旧『ヤマト』作品

こんにちは。ymtetcです。

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以前こちらの記事で、主題歌「宇宙戦艦ヤマト」の歌詞から”旧『宇宙戦艦ヤマト』の「らしさ」”=「旧ヤマトらしさ」を考えてみました。今回は、その成果をベースに、旧『宇宙戦艦ヤマト』作品について、考えていきます。

〇前回の振り返り

前回の記事の内容を、改めて振り返ってみましょう。主題歌「宇宙戦艦ヤマト」の歌詞、「さらば地球よ~宇宙戦艦ヤマト」までの冒頭部分は、乗組員とヤマトにとっての”故郷”である地球との距離を示すものです。そして「地球を救う使命を帯びて」は、”故郷”を救う任務を帯びたヤマトの役割を示しています。

ヤマトは地球から遠く離れた場所に旅立ち、地球と地球人類を救うために奮闘します。これは最初の『宇宙戦艦ヤマト』が持っていた構造です。そして、それは「日本から離れた場所で日本と日本人を守るために奮闘する」旧海軍艦艇、その象徴としての戦艦大和をモチーフにしており、「旧ヤマトらしさ」の根底を流れている「戦艦大和らしさ」を支えています。

では、旧『ヤマト』作品は、必ずこの「戦艦大和らしさ」を採用しているか。実は、そうとも限りません。

〇1974『宇宙戦艦ヤマト』の構図を踏襲した作品

とはいえ、意識しているかしていないかはともかく、少なくとも結果的には踏襲している作品もあります。

『ヤマトよ永遠に』は、人類を一瞬で滅亡させることができる爆弾を地球にしかけられ、ひそかに改修されていたヤマトは地球圏の小惑星から敵の母星へと旅立ちます。この作品は、「人類滅亡の危機を故郷に残して地球から離れる」意味で、最初のヤマトの構図に似ています。ただし、この映画は「残してきた故郷」よりも「残してきた愛する人」、具体的には森雪にスポットが当たりました。

あるいは『宇宙戦艦ヤマトⅢ』は、刻々と進行する人類滅亡へのカウントダウンに際して、ヤマトが地球を離れる(そして、地球から離れたところで地球と地球人類を救う)という意味では、最初の『宇宙戦艦ヤマト』と似ています。ただし、ヤマトの旅の目的は「移住先を見つける」ことであり、地球を救うよりは「人類を救う」ことに主眼が置かれています。その意味でこの作品は、”故郷を救う”使命を帯びていないという点で、『復活篇』に近い作品だと言えます。

これらの作品には、必ずしも「戦艦大和らしさ」があったわけではありません。

〇違う構図を持っている作品

そして、旧『ヤマト』の場合、そもそも最初の『宇宙戦艦ヤマト』とは異なる構図を持っている作品の方が多いと言えます。『さらば』と『ヤマト2』、『新たなる旅立ち』、『完結編』『復活篇』です。

『新たなる』はそもそも「地球を救う使命を帯びて」いないので除外しておきます。それ以外の作品には、共通項があります。いずれも「人類を滅亡させかねない脅威が、遠く離れた場所から地球に向かってやってきている」という点です。

いずれの作品でも、ヤマトは何らかの任務を帯びて地球を離れているのですが、結局は「地球に向かってやってきた」的に対して「立ちはだかる」ことで、人類への脅威を取り除きます。ヤマトは遠征に旅立つことで地球を救うのではなく、地球の盾になることによって地球を救うのです。ヤマトが地球を離れることと「地球・人類を救う」ことは、決して無関係ではありませんが直結していません。

その意味で、これらの作品は最初の『宇宙戦艦ヤマト』とは異なる構図を持っています。

〇結論

「日本から離れた場所で日本と日本人を守るために奮闘する」⇒「地球から離れた場所で地球と地球人類を守るために奮闘する」。最初の『宇宙戦艦ヤマト』らしさを作りだしていた「戦艦大和らしさ」は、必ずしも後期作品には受け継がれていないのではないでしょうか。それは、最初の『宇宙戦艦ヤマト』の原点に帰ろうとした『Ⅲ』や、戦艦大和宇宙戦艦ヤマトの繋がりを再度強調した『完結編』においても、です。

さて、お話的にはここで終わりなのですが、この枠組みで『さらば』を見ると面白いことが言えそうなので、紹介します。

〇『さらば』に見る「戦艦大和」らしさ

先ほど『さらば』を「戦艦大和らしくない」作品に含めてしまいましたが、実はそんなことはありません。

『さらば』のラストシーンを思い出しましょう。宇宙戦艦ヤマトは、ガトランティスの超巨大戦艦がいる(はずの)宇宙に向かい、光となって「永遠の旅」に旅立っていきます。この時、超巨大であるはずの超巨大戦艦は描かれず、ヤマトはとてもとても遠くに消えてしまいます。

これは、ヤマトが心理的な意味での「遠いところ」に旅立っていった(星になった)、との描写です*1

このラストシーンのヤマトは、地球から離れた(遠い遠い)場所に旅立って、地球と地球人類を守りました。その意味ではとても「旧ヤマトらしい」のです。あの場面では「さらば地球よ 旅立つ船は 宇宙戦艦ヤマト」のフレーズが重々しく流れますが、あれはとても理に適っている演出なのですね。宇宙戦艦ヤマト故郷を離れ、地球と人類の永遠の平和を守るために「永遠の旅」に旅立っていくのです。

この点において、『さらば』のラストシーンは最初の『宇宙戦艦ヤマト』のスピリットを明確に受け継いでいると言えます。

しかし、『さらば』はより根幹的な部分で最初の『宇宙戦艦ヤマト』のスピリットを受け継いではいません。それが、よく言われる「必ずここへ帰ってくる」のスピリットですね。『さらば』のヤマトは帰ってこない。

最初の『宇宙戦艦ヤマト』と「戦艦大和らしさ」を考える時、大きなポイントとなるのが「帰ってくるかどうか」です。

戦艦大和は、故郷に帰ってきませんでした。しかし、宇宙戦艦ヤマトは帰ってきます。構図自体は「戦艦大和らし」くても、宇宙戦艦ヤマトは帰ってくる。だから最初の『宇宙戦艦ヤマト』は「戦艦大和の悲劇」を克服しているのだ、との見方がありますよね。

宇宙戦艦ヤマトが帰ってくることは、「戦艦大和の悲劇」と対置されるものです。それを「旧ヤマトらしさ」とするならば、『さらば』のラストシーンはそれを守ってはいません。「必ずここへ帰ってくる」のフレーズは『さらば』では流れませんが、それはそれで理に適っている選択だと言えるでしょう。

ですが、指摘しておかなくてはならないのは、「必ずここへ帰ってくる」と誓った戦艦が「帰ってこない」のも、それはそれで戦場のリアルだということです。観客は、「必ずここへ帰ってくる」と誓ったヒーローが「帰ってこなかった」ことに涙した側面もあるのではないでしょうか。

『さらば』のラストは確かに「最初の『宇宙戦艦ヤマト』らしくない」ものですが、戦艦大和的な悲壮感」を発揮したシーンであることは間違いないのです。その意味では、広義の「<宇宙戦艦ヤマト>らしい」ラストだったのかもしれませんね。

〇今後の課題

戦艦大和らしさ」に着目して旧『ヤマト』を捉える手法には、一定の可能性を感じています。ただ、今回書いていて感じたのは、もっと「戦艦大和らしさ」の定義を深めておきたいということです。同じような枠組みで捉えている議論が他のブログ等にもありそうなので、そちらも調べてみたいですね。

*1:ヤマトの行き先を「あの世」(高次元世界)と解釈したのが『2202』ですね。