ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

戦艦大和の復活物語として:『ヤマトという時代』

こんにちは。ymtetcです。

ymtetc.hatenablog.com

こちらの記事では、「『2205』は若者世代もターゲットになる?」との予想を立て、そこから『ヤマトという時代』の立ち位置について考えました。

『ヤマトという時代』は、ドキュメンタリータッチで『2199』と『2202』を俯瞰する映画。これを観てから『2205』へと参加する「次世代のファン」は、『2205』からヤマトに乗り込む「次世代のキャラ」と目線が揃う……そんなお話でした。

ymtetc.hatenablog.com

また以前、こんな妄想もしていました。映画『ヤマトという時代』が描くのは、西暦2100年代の日本に存在した「戦艦大和ブーム」。その延長線上に、『2199』の「宇宙戦艦ヤマト」登場を位置づけるのではないか、と。これはあくまで妄想ですが、少し予想に引き寄せて言うならば、映画『ヤマトという時代』が戦艦大和の復活物語」である可能性はあり得ます。

今日はこれらを踏まえて、さらに考えていきましょう。

〇「戦艦大和の復活」

既に、西暦2145年に戦艦大和が何らかの形で再建/再現されたことは、特報により確定しています。とすれば、それが「宇宙戦艦ヤマト(BBY01)」の存在と無関係ではない。これは、大方の予想するところだと思います。

この時、一つの可能性が生じます。先ほど申し上げた可能性です。すなわち、『ヤマトという時代』が、「宇宙戦艦ヤマト(BBY01)の誕生」を「戦艦大和の復活」と表現する可能性です。今日は、この予想がある程度当たっているものと仮にみなして、考えていきます。

宇宙戦艦ヤマト(BBY01)の誕生」を「戦艦大和の復活」と表現することは、「宇宙戦艦ヤマト(BBY01)」の存在そのものが、一つの精神的なドラマの果てに生みだされた存在だと「再発見」されることを意味します。観客たちは、『2199』『2202』『2205』に登場する宇宙戦艦ヤマト(BBY01)」を「戦艦大和が復活した存在」と認識するようになるのです。すなわち、ヤマトはそこにあるだけでドラマチックな存在になるわけです。

〇「復活物語」に感動する人々

では、例によってメタ的な側面から同じように考えてみましょう。

核心から言えば、宇宙戦艦ヤマト2199』に始まるリメイク『ヤマト』は存在そのものがドラマチックです。著作権問題を筆頭とした艱難困苦を乗り越え、頓挫・頓挫・頓挫の嵐を乗り越え、「オワコン」と軽蔑されながら、最後に辿り着いたのが『2199』。『2199』の出現&ヒットは、それ自体が「『宇宙戦艦ヤマト』の復活物語」だと言えます。

時折、こんなことを言うヤマトファンの方がいらっしゃいます。「ヤマトが新しい映像で動いているだけで感動する」「無限に広がる大宇宙を劇場で聴くだけで(略)」と。これはカルト信者的だとして笑われることもありますが、実態は必ずしもそうではないかもしれません。

すなわち、そのヤマトファンの方は宇宙戦艦ヤマト』の復活物語」に感動しているのではないかということです。決して単なる妄信だけではなく、そこにはれっきとしたドラマがあるのではないでしょうか。私はそう考えます。なぜなら『宇宙戦艦ヤマト』それ自体が「老朽戦艦の復活物語」であり、シリーズで最大のヒットをもたらした『さらば』も、それと同じ構造をとっているからです*1。そのファンが、「『オワコン』の復活物語」に感動するのは当然のことに思えます。

〇体験は体験で

ですが、このドラマには重大な問題点があります。それは、このドラマの感動は「これまで『宇宙戦艦ヤマト』を愛していた人」にしか体験し得ないということです。

先ほどの極端なケースではないにせよ、新作で動いているヤマトを見てそれなりの感慨深さを覚えるファンは、決して少なくないでしょう。過去の存在と見なされていたものが、今もなお確かに生きているとの実感。そして、今も前に進んでいるという希望。その物語は、過去の苦難を大なり小なり知るものにしか体験できません。

すなわち、今の『宇宙戦艦ヤマト』だけを観ている若い世代の観客には、なかなか体験できない物語なのです。

だったら、リアルタイム世代のファンがこんこんと「昔話」をしてあげればいいのか。そういうものでもありませんよね。体験は体験でしか補えません。

〇存在をドラマに

そこで、映画『ヤマトという時代』です。

この映画をドラマチックな「戦艦大和の復活物語」に仕立て上げ、『2199』~『2205』の「BBY01」の存在に物語を与えれば、リアルタイム世代が抱いている大小の「感慨深さ」、「ヤマトが動いていることの喜び」を、形を変えて次世代(旧『ヤマト』を知らぬ世代)に体験させることができます。

こうすれば、『2205』ではヤマトが飛ぶことそれ自体にドラマが生じるわけです。復活した老朽戦艦に流れ込む、新たな顔と新たな決意……と構造づければ、それはそれで「熱い」ドラマに近づくのではないでしょうか。

そしてそれは、『2199』と『2202』が物語に組み込まなかった「老朽戦艦の復活物語」を補完することにもなります。これまでのリメイク作品で見落とされてきた、あるいは意図的にオミットしてきた「旧ヤマトらしさ」を、ここで新『ヤマト』にとり入れることも可能なのです。

〇おわりに

リメイク『ヤマト』は、既に「名作」を消費し尽くしました。『ヤマトという時代』や『2205』が「新」をキーワードにしているのは、作り手のチャレンジ精神の表れではありますが、反面「もうこれ以上はどうしようもない」現実への対応策でもあります。

『2199』がとった「旧作をアップデートする」や『2202』の「40年前の古代進を解放する」は、名作ならではの手法と言ってもいいでしょう。ゆえに、その手法はもう使えません。これからも「ヤマトの復権」にチャレンジするのなら、新たなものに挑戦するしかないのです。ファンの世代交代はその一つでしょう。

映画『ヤマトという時代』は、既存のファンだけではなく、新しいファンを何らかの形で「新作」(ここでは『2205』)に引っ張っていく努力をするだろう、と私は考えます。その中で、「老朽戦艦の復活物語」という『ヤマト』の原点に立ち返る可能性は十分あり得るのではないでしょうか。

さて、問題は映画の出来以上に、映画そのものに人々を動員する方法です。『追憶の航海』とは対照的な、小・中規模公開となった『ヤマトという時代』。これを『2202』と同等、あるいはそれ以上にヒットさせようと考えた時、何らかのプロモーション的な工夫を加えるのか、あくまでのファンの「口コミ」による協力に委ねるのか。このスタンスを観察するだけでも、いわゆる「製作」サイドが『2205』をどんな作品にしたいのか、今なお「ヤマトの復権」にこだわりをもっているのかといった、これからの『ヤマト』に対する姿勢が見えてくると思います。その意味でも、『ヤマトという時代』は今後の『ヤマト』の在り方を我々に示してくれる映画になりそうです。

*1:

こちらの記事はナミガワ様のコメント含め、おすすめです。

映画『バトルシップ』と「ヤマトらしさ」 - ymtetcのブログ