ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

「新ヤマトらしさ」:リメイク『ヤマト』の捉え方

こんにちは。ymtetcです。

昨日11月7日は、西﨑義展さんの命日でしたね。10年前、そのニュースを報じるテレビを観ていたいような、どこか目をそらしていたいような複雑な気分になっていたことを思い出しました。

さて、最近の記事で意識的に使っている言葉があります。また、今後使い分けていけたらいいなと思っている言葉もあります。今日は、それをいくつか紹介していきたいと思います。

○「旧ヤマト」と「新ヤマト」

まずはこれです。

「旧ヤマト」と「新ヤマト」。以前の記事で提示したものです。

ymtetc.hatenablog.com

この時、私はまさに西﨑義展さんに着目しました。

西﨑義展さんが完成版に関わっていた『復活篇』までの宇宙戦艦ヤマト』を「旧ヤマト」とし、完成版に直接関わっていない『復活篇DC版』以降の作品を「新ヤマト」としたのです。

また、いわゆる「松本零士派」の方であれば、松本零士さんのコミットで新旧を分けるのも一つの選択肢かと思います。そうすると、西﨑さんに注目していた時には宙に浮いていた『新・宇宙戦艦ヤマト』や『PSヤマト』が「旧ヤマト」に含まれることになり、『復活篇』以降が「新ヤマト」になります。この場合難しいのは、クレジットはあるものの、直接関わっているとは言い難い『2520』の扱いでしょうか。

あるいは音楽ファンであれば、宮川泰さんの時代、羽田健太郎さんの時代、山下康介さんの時代、宮川彬良さんの時代と分けてみてもいいでしょう。

いずれにしても、西﨑・松本体制で作られていたかつての『宇宙戦艦ヤマト』と、現在進行中の『宇宙戦艦ヤマト』を同列に語るのは少々無理があります。人それぞれ、どこかでシリーズ作品の変化を見出して、整理すればよいのではないでしょうか。

○「旧ヤマトらしさ」と「新ヤマトらしさ」

さて、「旧ヤマト」と「新ヤマト」を何らかの基準で分けてみたところで、最近私が熱くなっている言葉がこれです。

「旧ヤマトらしさ」と「新ヤマトらしさ」。これが今日の記事のメインだと言っても過言ではありません。

そもそも「ヤマトらしさ」は、新作が出るたびにファンの間で議論となってきたものです。最近では忌避される向きもありますが、私は向き合った方がいい課題だと思っています。そこで最近は、ブログの主要なテーマの一つとしています。

その理由は、コンテンツとしての『宇宙戦艦ヤマト』の現状にあります。すなわち、今の『ヤマト』は、ファンに多少なりとも「らしい」と思っていただかなくては、コンテンツとして成り立っていかないのです。

その上で、最近私は「旧ヤマトらしさ」と「新ヤマトらしさ」の区分に挑戦しています。先述した通り、私は新旧の区切りを西﨑さんのコミットに求めているので、今日は『DC版』以降を「新ヤマト」と見なします。

すると、「旧ヤマトらしさ」とは、『復活篇』以前の『宇宙戦艦ヤマトが持っていた「らしさ」であると表現できます。そして「新ヤマトらしさ」は、『DC版』以後の『宇宙戦艦ヤマトが持つ「らしさ」になります。

この時、「旧ヤマトらしさ」とは、我々がこれまで主に議論してきた「ヤマトらしさ」とイコールだと考えてよいでしょう。「『2199』はヤマトらしくない!」と言う時の「ヤマトらしさ」が、すなわち「旧ヤマトらしさ」だということです。

では、「新ヤマトらしさ」とは一体何なのか。これは、『DC版』以降、特に『2199』が作り上げてきた「らしさ」だと考えます。「『2202』は『2199』の続編とは思えない!」との批判がありましたが、この時、『2202』は「『2199』らしくない」と言われています。この「らしさ」が、「新ヤマトらしさ」です。

ですが、こう見ても分かるように、「新ヤマトらしさ」は不確定要素を多く含んでいます。これからも「新ヤマト」には新作が追加され続けるからです。その度に「新ヤマトらしさ」は変化していくことでしょう。

また、「旧ヤマト」がある程度、最初の『宇宙戦艦ヤマト』から『完結編』までの枠組みに収まっていくのに対して、「新ヤマト」は『DC版』、『2199』、『2202』と『2205』、『アクエリアスアルゴリズム』、『Λ』を含んでいます。これらの作品は、それぞれ異なる文脈と作風で作られた『宇宙戦艦ヤマトです。「新ヤマト」は、シンプルな枠の中に収めるのが難しいと言えます。

さらに、「新ヤマトらしさ」にはかなりの部分で「旧ヤマトらしさ」と重複する部分があります。「旧ヤマト」あっての「新ヤマト」なのですから当然ですね。ですが、新作が出るたびに誰かが「ヤマトらしくない」と言うように、「新ヤマト」は「旧ヤマトらしさ」を100%継承した作品群ではありません。そう考えると、「新ヤマトらしさ」は「旧ヤマトらしさ」と別個の概念として考えた方が、議論に広がりが生まれると思います。

ここまで観てきたように、「新ヤマトらしさ」は現時点では定義しがたいのが現実です。ですが、「原作者」不在のままに新作が作られ続け、それなりにファンを動員している今、我々の認識の中に「新ヤマトらしさ」は着実に育まれていると考えます。今後のシリーズ展開を見ていく上で、念頭においておきたい概念です。

○「『2199』シリーズ」と「リメイクシリーズ」

では、この「旧ヤマト」と「らしさ」、「新ヤマト」と「らしさ」を利用して、以前も少し検討したリメイクシリーズの呼称を考えてみましょう。

リメイクシリーズには、公式側に大きく分けて二つの呼称がありました。

  • 『2199』シリーズ
  • リメイクシリーズ

です。公式イントロダクションでは、前者がよく用いられているようです。

『2199』は『宇宙戦艦ヤマト』(1974)のリメイクです。ならば、この二つの呼称は全く同じものを同じように表現しているのではないか、と考える人もいるでしょう。もちろん、それに問題があるわけではありません。ですが、私はこの二つに、微妙なニュアンスの違いがあると思っています。

例えば、『2202』をイメージしてください。

  • 『2202』は『2199』シリーズの最新作です!
  • 『2202』はリメイクシリーズの最新作です!

この二つの言い方を想定した時、受けるイメージが少し変わってくるのがお分かりでしょうか。

前者の言い方は、『2199』に作品の立脚点を求めています。私の感想ですが、『2202』を「『2199』シリーズ」と呼称されると、少し違和感があるのです。『2202』はあまり「『2199』らしくない」と考えているからです。

つまり、「『2199』シリーズ」の呼称では、「旧ヤマトらしさ」だけでなく「新ヤマトらしさ」が重視されている、との印象を受けるわけです。

一方、後者の言い方はあくまで「リメイク」。「Re-make」なので「作り直す」ことに作品の立脚点を求めています。私の感想を言えば、この呼称には違和感はありません。『2202』は「『さらば』のリメイク」だと考えているからです。

つまり、「リメイクシリーズ」の呼称では、「新ヤマトらしさ」もあるが「旧ヤマトらしさ」が優位に立っている、との印象を受けるわけです。

このように、新作を「〇〇シリーズ」と表現する際の「〇〇」によって、作品に対して求められる作風は、無意識的にでも変化してくるものと考えます。

○おわりに

これは、些末な言葉遊びに見えるかもしれません。

ですが、言葉から受けるイメージも重要です。『Λ』がそこまで「ヤマトらしくない」と批判を受けないのは、『Λ』が単なる『宇宙戦艦ヤマト』ではなく、『宇宙戦艦ヤマトNEXT』だからなのではないか。そういった仮説も成り立ちますよね。

では、『2205』は一体どうなるのでしょう。

例えば『2205』は、「『2199』シリーズ」と呼称すべきなのか、「リメイクシリーズ」と呼称すべきなのか。それは作品の出来によって変わってくると思います。

玉盛さんたちが語っている「『2199』スピリット」への回帰が本格的になされるのであれば、前者の呼称がぴったりになるはずです。『2199』でも『2202』でもなく『新たなる』や『永遠に』『Ⅲ』の要素が強いのならば、後者の呼称が似合うでしょう。

あるいは、『2199』でも『新たなる』でもなく、福井脚本のオリジナリティが高いのであれば、新たに「『2202』シリーズ」として『2199』から分離させることも視野に入ってきます。その時『2205』は、「旧ヤマトらしい」のか「新ヤマトらしい」のかも問われるでしょう。

これらはあくまで私なりの軸です。皆様が『2205』を捉える時、どんな視点を持って臨むかは人それぞれです。その中で、私なりの視点が参考になれば幸い……といったところでしょうか。