ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

「あの娘」の象徴するもの:主題歌に見る「旧ヤマトらしさ」2

こんにちは。ymtetcです。

主題歌から見る「旧ヤマトらしさ」シリーズ。今日は『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)のエンディングテーマ「真赤なスカーフ」(作詞:阿久悠、作曲:宮川泰、歌:ささきいさお)を取り上げます。

それでは例によって、まずは歌詞全文を確認してきていただくことにします。

〇私なりの解釈

皆さまに歌詞を確認してきていただいたところで、私なりの解釈を書いていきましょう。この後に続く「ヤマトより愛をこめて」(映画『さらば宇宙戦艦ヤマト』主題歌)ほどではありませんが、この「真赤なスカーフ」も解釈の難しい詞です。色々な解釈ができるだろうと思います。

一番

  • 宇宙を征くヤマト。艦内の一角で、乗組員たちが見送りに駆け付けた人々について語り合っていた。
  • 次第に話題は、赤いスカーフを振っていた女性(「あの娘」)のことへと集中する。
  • 乗組員たちは、高揚感すら覚えながら「あの娘」について語り合う。
  • ある時、誰かが言う。「あの娘は誰を見送っていたのだろう?」。それを聞いた他の乗組員たちは、彼の疑問に深く共感する。
  • ある者はふざけて「俺のために決まっているだろ?」と笑う。ある者は「いや、俺のために決まってる」と反論する。互いにふざけ合って、乗組員たちは笑い合う。
  • それでいい。
  • 俺達は、必ず故郷へ帰る。そこには、俺達の帰りを待つ人達がいる。孤独な旅路でも、待っている人達のためなら前向きでいられる。だから、それでいいのだ。

二番

  • 俺達は、故郷に必ず帰る。だけど故郷は病んでいる。
  • 「あの娘」だって、俺達が帰ってきた時に、無事でいるかどうかは分からない
  • 俺達は随分遠くに来てしまった。もう振り返っても地球の姿は見えない。故郷に残してきた思い出や、大切な人みんな、今も無事でいるだろうか
  • それでもヤマトは前に進む。それが俺達にできることだから。それが、大切なものを守るために必要なことだから。
  • ああ。みんなどうか、無事で。

〇「あの娘」の象徴するもの

どうでしょうか。今回は少し、解釈を盛ってみました。異論もあると思います。

さて、今回、私がポイントとして注目したのが「あの娘」の象徴するものです。

「あの娘」とは、一体何を描くために持ちだされた言葉なのか。

「真赤なスカーフ」には、少なくとも二人以上のヤマト乗組員、しかも「男」が登場します。彼らは「あの娘」を話題にしています。ヤマトの乗組員を見送る時に「真赤なスカーフ」を振っていた女の子のことが、彼らの記憶に残っているようです。

そして彼らは、「あの娘」は乗組員の誰かのためにスカーフを振っていたと考えています。恐らく、誰かの恋人だと考えているのでしょう。だから、「誰のため」が話題にのぼるわけです。

この時にポイントとなるのが「誰のためでもいいじゃないか」「みんなその気でいればいい」の解釈ですが、私は、「その気」とは本気ではなく、ちょっとしたジョークのようなものなのではないかと思います。「あのカワイコちゃんは俺を見送ってたんだぜ」……という感じで(笑)。それに対して「いや、俺に決まってるだろ?」とふざけて応じる人もいるわけです。そんな(正直、あまり品が良いとは思えない)「男」同士のふざけ合いを傍から見ると、「みんなその気でいればいい」と微笑みたくなるのではないか……というのが私の考えです。

次に、歌詞は「旅立つ男の胸には~」と続いていきます。「あの娘」が誰のためにスカーフを振っているかは、この詞では大切なことではないようです。大切なのは、乗組員たちが地球を離れて旅をするために必要な「ロマン」だと、この詞は言います。

ロマン」とは、交響組曲のタイトルにもなっているように「夢」や「冒険心」です。私はここに、同タイトルの「明日への希望」も含まれるのではないかと考えます。要は「ロマン」とは、ヤマトを突き動かす”前向きなエネルギー”ということですね。

このような考えのもとで、私は「旅立つ男の胸には~」以降の歌詞を、以下のように解釈しました。

  • 大切なのは、ヤマトの帰りを待っている人がいることである。

つまり、「あの娘」は「ヤマトの帰りを待つ人々の象徴」であると解釈したのです。

〇「悲壮感」

こう解釈した時、二番の歌詞には前回の企画で登場した「悲壮感」が見出せます。

以前も見たように、オープニングテーマ「宇宙戦艦ヤマト」に見られる「大切なもの(故郷、愛する人)との距離が離れていること。遠い場所に残してきた大切なもの(故郷、愛する人)を守るために戦うこと」が、旧『宇宙戦艦ヤマト』における「悲壮感」の一端を担っていました。

そして、エンディングテーマ「真赤なスカーフ」の「あの娘」は、「ヤマトの帰りを待つ人々の象徴」。二番冒頭の「必ず帰るから」とは帰りを待つ人々との約束・誓い「きっとその日も迎えておくれ」は、帰りを待つ人々の無事を願う気持ちを表現しています。

”俺達には待っている人がいる。でも待っている人は、俺達が帰った時にはもうこの世にいないかもしれない。それでも、無事を信じて俺達は前に進み続ける。それが、待っている人たちを幸せにするために必要なことなのだから……。”と。

この使命感」と「不安」の同居が、「悲壮感」を作り上げていたと考えます。

ちなみに、この「悲壮感」の端的な表現が、旧『宇宙戦艦ヤマト』にありますよね。

  • 沖田十三(艦長)「さようなら~! 必ず帰ってくるからな! 達者で暮らしていろよ!」(第10話「さらば太陽圏!銀河より愛をこめて‼」)

この直後、挿入歌として「真赤なスカーフ」の二番が流れるわけです。

最初の『宇宙戦艦ヤマト』における「悲壮感」を象徴するシーンと言えますね。

〇せっかくなので

ここまで書いたところで、せっかくなので旧作第10話を観直してきました。素晴らしい回です。

挿入される「真赤なスカーフ」が二番なのは、言うまでもなく乗組員の心情とピタリ符合します。また、この場面は、故郷である地球に「愛する人」を残していない沖田と古代が、地球に別れを告げている点も興味深いです。

オープニング「宇宙戦艦ヤマト」の歌詞(さらば愛する人よ)、(「愛する人」を残している他の乗組員と対比する形で描かれる)沖田と古代の心情、そして最終話の沖田が残した「地球か、何もかも皆懐かしい」のセリフは、一つのドラマとして全て繋がっているような気がします。こちらも、改めて検討に値する課題ですね。

それにしても、第10話のラストは見事な流れです。

「真赤なスカーフ」が終盤に差し掛かると、相原の声がそこにオーバーラップ。相原は、「ついに、映像通信可能距離を離れてしまいました。受信映像はこれより不可能です」と報告します。ここで、映像を介した太陽圏の星々とのつながりが途絶えてしまうのですね。

そして沖田が「これにてパーティの終了を伝える!」と宣言します。太陽圏を離れ、銀河に踏み出してゆくヤマト。そのヤマトを不敵に見つめるデスラー

最後のナレーションはこうです。

  • 「我が故郷太陽圏と別れて、ヤマトは旅を続けている。待っているのは、ガミラスの魔の手だけか。既にヤマトは予定日数をオーバーして、50日を費やしていた。人類滅亡まで、あと300と15日」。

大切なものを(今なお病み続ける)故郷に残し、それでもなお前に進まなければならない「悲壮感」。孤独な宇宙を進まなくてはならない寂しさと、だからこそ、と決意を新たにする使命感。否応なしに予感される、これからの試練。そして淡々と横たわる、予定日数をオーバーしているとの事実。これが「間に合わないかもしれない」との焦燥感をかきたてています。

第10話ラストには、オープニングテーマとエンディングテーマが描いていた「旧ヤマトらしさ」の、全てが詰まっていたような気がしてなりません。