ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

「ヤマトより愛をこめて」と『ヤマト2202』

こんにちは。ymtetcです。

〇はじめに

ここまで前後編に分けて、「ヤマトより愛をこめて」を考えてきました。

【歌詞解釈】「ヤマトより愛をこめて」を読む(前編) - ymtetcのブログ

【歌詞解釈】「ヤマトより愛をこめて」を考える(後編) - ymtetcのブログ

この「ヤマトより愛をこめて」は、もちろん『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の主題歌だったわけですが、リメイク版『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の主題歌でもありました。そこで今日は、『2202』の主題歌として、「ヤマトより愛をこめて」を考えてみたいと思います。

〇議論の前提

前回の記事では、「ヤマトより愛をこめて」には二つのテーマがあると述べました。

ひとつが「愛の大切さを語る」ことであり、もうひとつが「ヤマトからの別れの言葉を述べる」ことです。そして、この二つのテーマが一体となってメッセージ性のある別れ」を演出し、『宇宙戦艦ヤマト』最終作のラストシーンを彩っていたと考えます。

今日も、この二つの要素に着目して、考えてみましょう。

〇『2202』主題歌としての「ヤマトより愛をこめて」

「ヤマトより愛をこめて」が『2202』の主題歌であったことは、宣伝上『さらば』人気を利用したい、とのプロモーション戦略上の理由も大きかったとは思います。とはいえ、作り手の側からすれば、この曲が主題歌である事実は決して無視できない「縛り」であり、作家の野心をくすぐるものであったと私は思います。

・「愛の戦士たち」を描く『2202』

まずこの点は、『さらば』と『2202』に共通している点です。ただし『2202』は、「愛」を人間性」(「大切なもの」への執着)として再定義した部分に特色があります。

『2202』で描かれた「愛」とは、必ずしも「平和」をもたらすものではありませんでした。時に命を選び、自分自身を滅ぼしもする。『さらば』から40年経って、我々(当時の少年少女たち)はそれを痛感してきたよね、と語りかけるのが福井さんのやり方でした。

それゆえ、『2202』は「愛」=人間性を否定する敵を登場させ、主人公である古代を、彼がその敵の思想に取り込まれるまで追い込むという構造をとったのです。

この構造自体が、「『さらば』のメッセージは間違っていたのだろうか?」という大きな問いになっています。そして、それを否定するのが最終話なのです。

この40年間、『さらば』のメッセージだった「愛の大切さ」は裏切られ続けてきた。では、あのメッセージは間違っていたのだろうか? 古代進の行動は間違っていたのだろうか? いや、そうじゃない。僕たちには「愛」があるから、平和を求め続けることができる。どんなに現実に苦しめられても、平和という理想郷を目指すことができる。それは、僕たちが「愛」という理想を持っているからだ。人間はきっとやれる。人間が「愛」を諦めない限り、平和な未来が消えてしまうことはない。だから、『さらば』のメッセージは間違っていない。

これが『2202』の結論だったと私は考えます。

つまり、『2202』は『さらば』のメッセージが間違っていないことを確認する物語。その意味で、『2202』と「ヤマトより愛をこめて」は、「愛」の強い肯定、という一点で強く結びついていると言えますね。

・「さらば」しない『2202』

問題はこちらです。『2202』のヤマトは「さらばしない」。この事実は、「今はさらばといわせないでくれ」の解釈に大きな影響を及ぼします。さて、どう考えましょうか。

まず注目したいのは、『さらば』では「愛」と「さらばすること」が一体のものであったことです。これをそのまま『2202』に当てはめて、「愛」と「さらばしない」を一体のものと捉えることにしてみましょう。

そこで私は、『2202』は(意図していたかどうかは別にして)「ヤマトより愛をこめて」を「別れ」のテーマではなく「再会」のテーマとして再定義したと考えてみました。

先述したように、『2202』は「愛」を「命を選ぶ」「時に自分を滅ぼしもする」ものとして描きました。「愛」が持つ、必ずしも肯定的には捉え難い一面を描いてきたのです。

「愛」の不条理さを知ったズォーダーは、「愛」を否定する哲学者となり、「愛」の矛盾した部分を暴露するために「悪魔の選択」を仕掛けてゆきます。そして、古代は”「愛」ゆえに死んでいく”(第25話)のです。

ですが、『2202』はそこで終わりではありませんでした。古代は、そして人類は「愛」ゆえに古代進と森雪を救い出したのです。ここで描かれたのは、”「愛」ゆえに生きる”ことです。すなわち『2202』は、それがうまくいったかどうかは別にして、文字通り『さらば』の”「愛」ゆえに死ぬこと”(ナミガワ様の表現を借りれば「殉死」)の一歩先まで、物語として描き切ろうとの野心があったのです。

このように『2202』を捉えた時、「ヤマトより愛をこめて」の「今はさらばといわせないでくれ」はこう解釈できるのではないでしょうか。

今はまだ別れを告げたくない。なぜなら、ヤマト(=「愛」の艦)にはまだやることがあるから。苛酷な現実はまだまだ続くから。ヤマトは未来の平和を、永遠の平和を求めて、この世界で旅を続けなくてはならない。だから、これからもヤマト(=「愛」の艦)は必要なんだ。

〇おわりに

福井さんは「苛酷な時代」について、まだまだ到底終わるものではないと考えています。確かに、現在の「禍」だって、バブル以後の日本が慢性的に抱えた不況と社会不安を再生産している、と捉えることも可能です。

『2202』の理念に物足りない点があるとしたら、「苛酷な時代の終わらせ方」を提示できなかったことでしょう。ですが、それは到底不可能なことなのです。それが分かれば誰も苦労しない。少なくとも、福井さんは容易ではないと考えているはずです。

ですが、福井さんはそこに『宇宙戦艦ヤマト』の存在意義を見出していると私は思います。すなわち、「苛酷な時代」がこれからも続くのだから、「苛酷な時代」とその克服への挑戦を描く(べきと福井さんが考えている)『宇宙戦艦ヤマト』はこれからも作られ続けなくてはならない、と。

こうすれば、『宇宙戦艦ヤマト』の新作は存在意義を持ち続けます。社会を解き明かすために、社会を変えるために、これからも。

「社会派作家」とかつて言われた福井さんは、こうして、自分なりのスタイルで『宇宙戦艦ヤマト』を肯定し、今後のシリーズ展開の土台となるフレームワークを作ろうとしていたのではないでしょうか。

「ヤマトより愛をこめて」が『2202』の主題歌であったとの事実から、今日はこのようなことを考えてみました。

『2205』もまた「苛酷な時代」を描き、それを乗り越えようとする物語になるでしょう。「ダラダラと続編を作って……」と呆れることも可能ですが、敢えてこれを「ヤマトの本当の”完結”=『苛酷な時代の終焉』へのステップ」と前向きに捉えることも、一つの手なのではないかと私は思います。