ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

「こんなのヤマトじゃない」を未来に繋げる

こんにちは。ymtetcです。

〇はじめに

「こんなのヤマトじゃない」

この言葉は、ヤマトファンが長年付き合ってきた言葉ではないでしょうか。近年でも『復活篇』『SBヤマト』『2199』『2202』……新作が公開されるたび、誰かが必ずこのフレーズを口にしてきました。

"こんなのヤマトじゃない" - Twitter Search

Twitter検索を見て分かる通り、現在ではこの言葉に対する反論、反発もしばしば見られます。私も、かつてはその一人でした。ですが、この言葉は、ただの懐古主張として切って捨てていいものなのでしょうか。今日の記事では、この「こんなのヤマトじゃない」の感情に、意味を見出してみたいと思います。

〇「こんなのヤマトじゃない」

「こんなのヤマトじゃない」。この言葉そのものに、ほとんど意味はありません。

なぜなら、それは他者にとっては理解しがたい、個人的感情に過ぎないからです。

「こんなのヤマトじゃない」。この言葉自体は、ほとんど広がりを持ちません。

想像してみましょう。ある人が「Aはヤマトじゃない」と言う。この”ファンの声”に従うなら、Aは未来永劫、選択されるべきものではありません。ですが、ある人は「Bはヤマトじゃない」とも言う。この”ファンの声”にも従うなら、Bもまた未来永劫、選択されるものではなくなります。そして、CもDも。

「こんなのヤマトじゃない」を積み上げた先にあるのは、こういう世界です。一人一人が全く異なる”ファンの声”によって、「ヤマトらしいヤマト」の幅は半永久的に狭まり続け、新たなヤマトの作り手はどんどん窮屈になっていきます。

作り手に対するプレッシャー(縛り)が高まることに、どんなデメリットがあるか。

一つに、作り手がヤマトを自由に作ることができなくなることが挙げられますが、これは大した問題ではありません。元々、ヤマトはその作り手のものではないからです。作り手は初めから自由ではありません。

一番の問題は、「開き直る」作り手が出現するリスクだと私は思います。「あんな自分勝手なファンのことなんて聞いていられるか、自分は好きなようにやる」と。

自分のカラーを出そう、という作り手の想いは決して否定されるべきものではありません。しかしそれが高まり続けると、「”ファンの声”を聴かない」こと自体が目的となってしまいます。ファンの声を無視することに目的を置いた作品が、果たしていいものになるでしょうか。そうならないことは、明白ですね。

確かに、「こんなのヤマトじゃない」の「こんなの」は、人によって異なります。「ヤマトらしさ」と同じように、「ヤマトらしくない」ものもまた、定義しがたい。だから、「こんなのヤマトじゃない」それ自体は、大した意味を持たないのです。

ですが、「こんなのヤマトじゃない」と憤りを露わにしているということは、その人はヤマトに対して、多少なりとも愛着を持っています。いや、むしろ愛着があるからこそ、「こんなのヤマトじゃない」と感じたのです。であれば、この感情そのものは、とても健全な”ファン心理”であるはずです。

だからこそ、「こんなのヤマトじゃない」の感情をさらに一歩進めたいと私は思います。

〇「こんなのがヤマトだ」

「こんなのヤマトじゃない」とは一体何なのか。

定義するなら「『宇宙戦艦ヤマト』の名を冠する新しい作品に対する反感」でしょう。すなわちこれは、新作『ヤマト』に対する、観客の受け止め方の一つの型。それは必ずしも深い考えを伴ったものではありません。一種の自動思考だと思います。自分の「ヤマトらしいヤマト」を守るための、とっさの反応なのです。

だから、その裏には必ず「こんなのがヤマトだ」というその人の想いが隠されています。「ヤマトらしくないヤマト」をその人が発見した時、その人の中には「ヤマトらしいヤマト」が確かに存在しているのです。

それを見つけるためには、「こんなのヤマトじゃない」からもう一歩、立ち入って考えなくてはなりません。「こんなのがヤマトだ」という自分の想いを解き明かすことは、すなわち自分を理解することでもあるのです。

このような見方に立った時、これから登場する全ての新作『宇宙戦艦ヤマト』は、私たちにとって、大きな価値を持つと理解できます。新作『宇宙戦艦ヤマト』と向き合うことは、私たちが、私たちの中の『宇宙戦艦ヤマト』、一人一人の中にしかない『宇宙戦艦ヤマト』と向き合い、それを発見することに繋がるのです。

言うなれば、「『宇宙戦艦ヤマト』の再発見」。その機会をもたらすだけで、あらゆる新作『宇宙戦艦ヤマト』には意味があるのです。

〇おわりに

今回の記事は、便宜上、読み手の皆さんに呼びかける構成をとりましたが、実は自分への戒めです。

これまで私は、大抵の『宇宙戦艦ヤマト』作品を受け入れてきたつもりです。『2199』の頃は、「こんなのヤマトじゃない」と語る人と対立したこともありました。ですが、シンプルに考えれば、「こんなのヤマトじゃない」と語る人もまた、ヤマトに愛着を持っている人。そして、その人は、無意識にでも「こんなヤマトが観たい」という理想像を持っている。それは突き詰めれば、私も同じなのです。

だとすれば、私もいつか「こんなのヤマトじゃない」と思う日が来るのではないか? そう思ったのが、今回の記事の始まりでした。

「こんなのヤマトじゃない」という感情は恐らく、誰でも抱き得る感情。『2202』に対する「こんなのヤマトじゃない」を批判していた人が、次のヤマトでは「こんなのヤマトじゃない」と言ってる可能性だって、当然あります。もし自分がそうなったとしたら、私はその感情とどう向き合えばいいのか? それを考えた結果、今回の記事になりました。

FGT2199様も同様のことを指摘していらっしゃいますが*1、ヤマトには、絶対的かつ唯一の「作者」がいません。いないわけではないかもしれませんが、少なくとも今はいません。「神の前では皆平等」ではないけれど、『宇宙戦艦ヤマト』の前では、出渕裕さんも、福井晴敏さんも、私たち観客も同じ、『宇宙戦艦ヤマト』を対象化して捉える立場なのだと思います。

今の『宇宙戦艦ヤマト』は、誰のものでもありません。強いて言うなら、西﨑彰司さんも出渕さんも福井さんも私たちも含めた、『宇宙戦艦ヤマト』に関わる全ての人のもの、なのではないでしょうか。

だからこそ、作り手は作り手の立場で、観客は観客の立場で、「こんなのがヤマトだ」を積み上げていけたら、と思います。そうすれば、いつかきっと、大勢の人たちが「これがヤマトだ」と心の中でガッツポーズできるような『宇宙戦艦ヤマト』が、私たちの前に出現するはずです。そしてそれもまた「こんなのヤマトじゃない」と言われ、『宇宙戦艦ヤマト』はさらなる未来へと進んでいく。

進歩史観的ではありますが、『宇宙戦艦ヤマト』そのものが太古の存在になりつつある現代に、この先もヤマトを残して行こうとするならば、それはきっと「ヤマトらしく、現代的な」作品を目指して「本質のアップデート」*2を続けることによってしか、不可能なのではないかと考えます。