ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

最新インタビューで『ヤマトという時代』を語る

※念のため「ネタバレ注意」です。

〇はじめに

こんにちは。ymtetcです。

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福井晴敏さんの新しいインタビューが公開されていました。『ヤマトという時代』と『2205』について語った内容で、これまで私が疑問を抱いていた点について、ヒントをくれるものになっています。今日はこれを取り上げたいと思います。

現代社会と『宇宙戦艦ヤマト

まず、福井さんはこう述べています。

福井さん 「『宇宙戦艦ヤマト』という時代」とはどんな時代か? 身も蓋(ふた)もないけど、毎年のように新しい宇宙人が攻めてくる。それはないよな? マンガ的すぎるかな?とも思うけど、今のご時世は毎年のように災害が起き、来年辺り、宇宙人が来ても驚かないし、何が起きてもおかしくない時代。「宇宙戦艦ヤマト」を現代の鏡像として描ける時代になってしまった。そこを感じていただけるようにドキュメンタリーにしたんです。

宇宙戦艦ヤマト:現代の鏡像としての総集編 「2205」はどうなる!? 福井晴敏、山寺宏一に聞く - MANTANWEB(まんたんウェブ)

今や「現代は正解のない時代」という言葉が「正解」になりつつあります。

毎年のように人類に危機が訪れる旧『宇宙戦艦ヤマト』の筋書きを「変化の激しい現代」に落とし込む発想は、宇宙戦艦ヤマト』の続編を作り続けるための理屈としてはアリだと思います。

ただし、その際は訪れる「危機」が現代社会に相応しいものとなるよう、工夫を加える必要があります。逆に言えば、それさえできれば宇宙戦艦ヤマト』の続編を作り続けること自体は悪いことではなくなる、ということです。シリーズものを生きながらえさせるための論理、という消極的なものではありますが、『宇宙戦艦ヤマト』はその歴史的背景により、「続編を作ること」自体が批判の対象になり得るコンテンツです。それに対抗する論理を用意する、という意味では、納得がいく説明でした。

〇『ヤマトという時代』の路線

さらに福井さんはこう述べています。

福井さん 「宇宙戦艦ヤマト」は、古代進という男の物語と思っています。そこをブレずにしたかった。ただ、古代が語ってしまうと偏ったものになる。そこを引いて見るということで、真田という人選でした。誰が何をしたか?という人間ドラマを根本にしているので、今まで「宇宙戦艦ヤマト」シリーズを見たことがない人でもスッと入っていけると思います。

宇宙戦艦ヤマト:現代の鏡像としての総集編 「2205」はどうなる!? 福井晴敏、山寺宏一に聞く - MANTANWEB(まんたんウェブ)

宇宙戦艦ヤマト』は古代進の物語である、という言には賛同も異論もあるでしょう。『宇宙戦艦ヤマト』を集団劇と捉えれば、『2199』のような方向性になります。『宇宙戦艦ヤマト』を古代進の物語と捉えれば、『2202』のような方向性になります。

恐らくは、どちらの見方も正しいし、どちらか一方に極端に偏ってしまえば失敗すると思います。このバランスをどうとっていくかは、今後の『宇宙戦艦ヤマト』を作る上で重要なポイントになるかもしれません。

戦艦大和の位置づけ

そして福井さんは、私が抱いていた疑問にヒントをくれました。まさにこのブログで書いた、戦艦大和の取り扱い方の問題と*1、「苛酷な時代」の問題です。

福井さん 基本的に現代の写し絵だと思っています。(脚本の)皆川ゆかさんや(設定アドバイザーの)玉盛順一朗さんらと総力で作りました。200年間、戦争がなくて、慰霊のモニュメントとしてヤマトを作るという発想は私にはなかった。「宇宙戦艦ヤマト」でいろいろな災害、疫病を乗り越えた200年は、われわれにとってバブルのようなもの。1990年代に雲行きが怪しくなったのは、火星の反乱……と結果として近現代史に近くなった。面白いところですね。

宇宙戦艦ヤマト:現代の鏡像としての総集編 「2205」はどうなる!? 福井晴敏、山寺宏一に聞く - MANTANWEB(まんたんウェブ)

戦艦大和登場、と考えた時、気になるのがその背景でした。なお、『ヤマトという時代』に戦艦大和を登場させるアイデアは、福井さんではなく、皆川さんもしくは玉盛さん(あるいは岡さん)から出たアイデアのようです。

私は、戦艦大和の登場を内惑星紛争に繋がる「戦争」の足音として予想していました。ですが、『ヤマトという時代』は逆に「慰霊のモニュメント」として位置づけているようです。「慰霊のモニュメント」たる戦艦大和が「宇宙戦艦ヤマト」として蘇り、人類を救う旅に出る、という筋書きを仕立てるつもりなのかもしれません。

ところで、福井さんの言葉の「200年間、戦争がなくて」という部分は引っかかりますね。我々がよく知っているように、1945年以降も世界中で戦争が起きているからです。

恐らく福井さんは「日本」のみに限定しているか、あるいは「世界大戦」のみに限定しているのでしょう。異論はあるかもしれませんが、一応1945年以来日本は戦争をしていませんし、世界大戦も起きていません。ただし、戦艦大和との関わりがあるということは、「日本」に限定している可能性が高いと思います。

だとすると、「200年間、戦争がない」ことを祝福して盛大な式典を行ったのは、日本だけなのかもしれません。細かい話ですが、それならば、「二百年祭」は「第二次世界大戦」の名称ではなく「アジア太平洋戦争」「太平洋戦争」……etcの名称が使われる可能性が高い気がします。例えば、今の我々はあの戦争を「枢軸国V.S.連合国」(「第二次世界大戦」)の枠組みでは見ておらず、「日本V.S.米国」(「太平洋戦争」)の枠組みで見ることの方が多いような気がします。少なくとも今の日本人は、「第二次世界大戦」よりも「太平洋戦争」の呼称の方に、”自分事”意識を持っているのではないでしょうか。

そして、これは「第二次世界大戦終結二百年祭」が、西暦2145年の地球世界においてどれだけの存在感があったのか、という話にも繋がってきます。日本だけがやたらに盛大なものだったのか、世界中で盛大なものとして行われたのか、では状況が異なります。さらに、それは「第二次世界大戦終結二百年祭」が戦艦大和を「慰霊のモニュメント」として復活させる、という筋書きにも関わってきます。

そもそも、「第二次世界大戦終結二百年」を、戦艦大和を使って祝福したのは一体どんな人たちなのか。正直に言うと、よく分かりません。

恐らく劇中設定では呉で復元されたことになっていると思いますが、同じ広島なら、「慰霊のモニュメント」や「恒久平和の象徴」としては産業奨励館(現「原爆ドーム」)を新たに復元する、とした方がまだ理解はしやすいです(『宇宙戦艦ヤマト』の本筋とはズレますが)。いくら呉が戦艦大和を観光産業として主力に据えているとはいっても、「太平洋戦争終結以来200年、日本が戦争をしなかったこと」を記念して大艦巨砲主義の象徴を復元する理屈は、今の私にはいまいちピンと来ていないのです。矛盾した行為のような気がしてなりません(「戦艦」と「反戦」の矛盾がここに反映されるのかも)。

この辺りは、当を得た説明が劇中にてなされるものと思います。一応、公開までの間に私の方でも考えようとは思っていますが、なかなか糸口が見えませんね。ポイントになるのは、劇中世界の人々に戦艦大和がどう認識されているのかということだと思いますが……。

例えば呉という街は、現在の日本で戦艦大和を”推す”代表的な土地ではないかと思います。しかし、手元にある「大和ミュージアム」の常設展示図録を読みますと、どうやらあそこは「呉の造船技術」に重きを置いて戦艦大和を”推し”ているようです。それは必ずしも、「戦争」や「平和」といった大きなテーマではないのです。呉で戦艦大和を復元し、それを多くの人が観にくるということを想像した時に、それは果たして「慰霊のモニュメント」なのだろうか? と、より一層頭を悩ませています。

本編の答えを楽しみに、しばらくは頭を悩ませたいと思います。

〇「苛酷な時代」

熱く語りすぎてしまいました(笑)。

さて、先の引用においては、西暦2145年の「終結祭」あたりが現実世界のバブルであり、「終結祭」の後に訪れる内惑星紛争の時代が現実世界のバブル後(「雲行きが怪しくなった」)にあたる、という旨が語られました。ここは、かつてナミガワ様のコメントから妄想した過去記事「福井晴敏と「苛酷な時代」:映画『ヤマトという時代』 - ymtetcのブログ」の内容と重なる部分があって、少し嬉しかったです。ただし、狙ったものではなく「結果として」だそうですが。

今日は重箱の隅をつつきたいので、もう少しつつかせてください(笑)。

バブルとバブル後の時代は「近現代史」なのでしょうか。

どっちでもいいじゃん、ともう一人の私が叫んでいるのですが、90年代はさすがに「現代史」の範疇だろう……とも思ってしまうのです。冷戦終結以後を現代史とするならば近現代史なのか……?

まぁ、実際どちらでもいい話なのですが、今回の映画はSF的な理系の整合性のみならず、社会や歴史といった文系の整合性も問われるものになると考えています。それを考えると、こうした一つ一つの言葉が映画の「リアリティ」を作る上で重要になります。福井さんたちは困難な課題に手を出したな、と思いますね(笑)。

〇「火星の反乱」

なお、福井さんが内惑星紛争を「火星の反乱」と表現していることも興味深いです。

以前「鮫乗り」様が、「地球人」意識と絡めて映画の内容を予想しておられました。

blog.livedoor.jp

(私もコメントを寄せています)

戦争が国民を一つにまとめる、というのは納得のいく筋書きです。その意味で、異星人という分かりやすい「他者」は、地球人類を「われら地球人」にまとめあげるための存在としては恰好の存在であると考えています。

そこから逆算すれば、地球人同士が戦争しあった内惑星紛争は、「地球人」意識の中で読み解けば「反乱」になります。この「火星の反乱」という言葉を読みながら、『ヤマトという時代』は「<地球人>の形成、分裂と再統合」を描いた物語でもあるのかな、と思いました。「形成」はアポロ計画以来の宇宙進出(あるいはグローバリズム)として、「分裂」は内惑星紛争として、「再統合」はガミラス・ガトランティスとの対外戦争として。異星人・ガミラスに対して地球人が先制攻撃を加えてしまったこと、ガミラスとの戦争を経て国連が解体され「地球連邦」が誕生したことも、この流れの中で位置づけられそうです。

〇おわりに

今日はインタビューを読み、思ったことを書いていきました。

途中は揚げ足取りの形になってしまいました。文系の末端にあるものとしての少しだけの意地が、悪い形で出てしまったと思います(笑)。

とはいえ、この映画が山寺宏一さんの言うような「リアルな物語」であるためには、(これまでのリメイク版『宇宙戦艦ヤマト』で主に問われてきた)理系のリアリティだけでなく、文系のリアリティも重要になることは間違いないでしょう。

そして厄介なのが……文系のリアリティは知識の多寡に関わらず誰でも「体感」できるということです(ミリタリーは別ですが)。なぜなら皆、社会の中で生きているからです。その経験に裏打ちされた「感覚」が「リアルじゃない」と判断してしまえば、その時点で映画はその人にとって「リアルな物語」ではなくなります。例えば今日の私のように、素人でも偉そうに批判できてしまう。ズレた批判かもしれませんが、それでも批判を容易に言葉にできてしまうわけです。これは理系やミリタリーの専門的知識を必要とする、これまでの「リアリティ」批判とは違います。それは文系が理系に比べて学問として云々、という話ではなく、「入口」のハードルの低さの話です。

ゆえに、『ヤマトという時代』に対する批判は、これまでの『2202』批判よりも多様化する恐れがあります。理系の素養がない私のような人にも「そりゃねぇだろ」と言われてしまう映画になりかねないからです。そのリスクがある作劇方法をとってきたことは、あるいは賞賛すべきことなのかもしれませんが。

福井さんを「社会派」と呼ぶことに異論をいただいておりますが、私は、少なくとも福井さん自身は「社会派」的な作家であろうとしている、と考えています。それだけに、福井さんが「社会派作家」であるか否かは、私の中でもまだ結論が出ていません。

この映画は私にとって、福井さんが「社会派作家」なのかどうかを判断する重要な材料になりそうです。もちろん、「社会派」だから優れているという話でもありませんので、「福井さんの作家としての評価をする」という話ではありません。あくまで福井さんの作風、あるいは強みとして「社会派」の側面があるかどうかを知りたい、と思っています。

純粋な映画としてだけでなく、様々な側面から楽しむことができそうですね。