ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

再評価の難しい『YAMATO2520』話/アニメひとことレビュー

こんにちは。ymtetcです。

前回の記事では、「地球を救うこと」と「人類を救うこと」の違いから、『復活篇』を再評価してみました。『復活篇』は再評価しやすい作品です。

ですが、『復活篇』と密接な関わりを持って企画されたもう一つの『宇宙戦艦ヤマト』である『YAMATO2520』は、とても再評価の難しい作品です。ほぼ同時期に企画された作品にも関わらず、なぜこのような違いが生じたのでしょうか

〇完結していないから……

答えは単純です。『2520』は完結していないからです。

もしも完結していたなら、再評価される機会もあったかもしれません。ですが、完結していないことで、再評価されることもとても難しくなってしまっているのです。

〇再評価は一人では難しい

そもそも、再評価は一人では難しい作業だと考えています。再評価とは、大なり小なり大胆なものになるからです。

例えば、前回私が行った『復活篇』の再評価は、読んでくださる皆様もまた再評価できるからこそ、可能だと言えます。『復活篇』を観ている人が多い、ということが前提になっているからこそ、私は間違いを恐れず、思い切って再評価できるのです。

事実誤認や間違っている点に指摘をもらうことのできる状況でなければ、意見は提起しづらい。その意味で、一部の人たちしか観ていないであろう『2520』は、考えることがとても難しいわけです。

〇アクセスの難しさ

なぜ『2520』を観たことのある人が少ないのかと言えば、それは「完結していないから」に尽きます。

『2520』の問題として手軽に視聴できないという点が挙げられますが、今日に至るまでDVD/BD化、あるいはCSでのテレビ放映がなされていない要因としては、権利的な問題を除けば、やはり未完であることが大きいのだと思います。そのことによって、私たちは『2520』にアクセスすることがとても難しくなっています。それでは再評価などできるはずもありません。

そもそも、完結していない作品を楽しむことができる人は限られています。既に観たことのあるファンからしても、完結していない作品は他者にお勧めしづらいという側面もあります。こうした背景から、『2520』は広がりを持てないでいるのです。

『2520』は、潜在的な層も含めて、視聴者が極端に少ないと言えます。その中から再評価を志す人は、さらにごく一部となります。ゆえに、『2520』は作品全体を再評価することがとても難しいのです。

シド・ミード展がもたらした希望

さて、一昨年の「シド・ミード展」では、『2520』も目玉の一つとなりました。

シド・ミード展|YAMATO

これは美術の観点から『2520』を再評価することに繋がったと言えます。

これと同じように、音楽も再評価が可能でしょう。デイヴィッド・マシューズの手になる音楽は一定量の完成を見ており、再評価も不可能ではありません。

宇宙戦艦ヤマト』の美術や音楽が「西﨑義展×松本零士」「西﨑義展×宮川泰」のコラボレーションの結果だとすれば、『2520』の美術や音楽は「西﨑義展×シド・ミード」「西﨑義展×デイヴィッド・マシューズ」というコラボレーションの成果です。

これらは再評価されてもいいのではないでしょうか。残念ながら私は美術も音楽も専門ではないため深入りできませんが、このように、観点を絞って再評価することは十分可能だと考えています。

〇ノベライズが理想

なお、昔から言われる「ノベライズして完結」は、再評価の観点から考えてもメリットがあります。

ストーリー上完結させておけば、既存の『2520』に「アニメ化できたのはここまで」というロジックを当てはめることができるからです。

そうすれば、既存の『2520』を「アニメ版」と位置づけて、より活発な議論の俎上に乗せることができます。とはいえ、『2520』の資料は散逸している可能性が高く、ノベライズも現実的ではないのが切ない所ですね。

 

今回の記事はここまでですが、もう一つの話題も書いておきます。

以前『のんのんびより』の記事を書きました。それと同時に、同作を監督した川面真也さんの繋がりで、2017年の夏アニメ『サクラダリセット』(監督:川面真也)を鑑賞しました。サブブログに書くほどまだ検討できていないので、おまけ程度に感想を書いておきます。

〇アニメひとことレビュー:『サクラダリセット


TV Anime「Sakurada Reset」PV

サクラダリセット』はキャラクターに癖のある人物が多く、彼らのテンションに合わせることがとても難しかったです。もう少し私が若ければもっとすんなり入り込めたのかもしれませんが、2017年のアニメなので、それは無理な話。

とはいえ、物語が進むにつれて、『サクラダリセット』は彼ら彼女らの独特なキャラクター像をいくつかこじ開けてくれました。それだけに、作品内の謎がいくつか明かされてくると、その独特な人物像にも納得がいくようになりました。彼ら彼女らの振舞いは”リアル”な人間とはあまりにかけ離れていますが、その内面にあるものはとても純粋で、等身大の中学生であり、高校生。そこが私は好きでした。

この作品を観ながら頭にちらついたのは、「文系ファンタジー」という言葉です。これほどまでに「言葉を交わすこと」を重んじる作品も珍しいのではないかと思います。そして彼ら彼女らが交わす言葉、繰り返される問いかけは、文系畑で生きてきた私には”あるある”なものばかりで、嬉しい気持ちにさせてくれるものでした。この作品にハマったという中高生がいたならば、是非文系の道に進んでほしいものですね。