ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【スターブレイザーズΛ】衝撃と納得の第10話

こんにちは。ymtetcです。

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『Λ』第10話「ライジング・サン」が公開されました。”そう来たか!”という衝撃と、”さすが”という納得の両方を感じた回でした。

〇第10話「ライジング・サン」あらすじ

ミフネがAIの「救い」となって、一番大切なものを守る話。

ミフネは、セイレーネスにハッキングされたAI艦の内面に入り込む。そこにいた「彼」(艦のAI)は、セイレーネスによって新しい「現実」を与えられていた。セイレーネスは「彼」の自我を逆手にとり、「彼」の認識していた現実の世界と「ゲームの世界」を反転させ、現実世界のヴィマーナに対する攻撃を行わせようとしていたのだ。

ミフネは「彼」を説得するため、友達として一日を過ごすことにする。だが、そこでミフネは気付く。「彼」を説得することはできない、「ゲームの世界」は「彼」にとっての「救い」なのだから……と。ミフネは「彼」の「救い」になることを決める。

AI艦の進撃が、止まった。

〇感想

『鉄腕アダム』以来の感覚でした。ハッキングされたAIとの戦いを、「心」の内面として描くとは……。これぞ吾嬬さんの作品なのではないかと思います。これについては私もうまく説明できる気がしないので、よかったら『アダム』を読んでほしいです。

あくまで『アダム』『Λ』と触れてきた限りの私見ですが、吾嬬さんは読者の前提を揺さぶるのが巧いと考えています。

『アダム』にせよ『Λ』にせよ、物語を推し進める上での一定の枠組みや流れが、予め決められています。私たち読者はそれに乗せられていくわけですが、ちょうどその枠組みに慣れてきた頃に、吾嬬さんは揺さぶりをかけてきます。『アダム』でいけば、第11話前後がそれに該当するでしょうか。そこでは、地球に飛来するはずの蝶が初めて火星に飛来し、さらに、物語の根幹にあるデイジーベルの過去が、少しずつ明かされていきます。『アダム』の場合は、ここで物語に立体感が生まれました。

今回も、これまでの『Λ』のパターンでいけば、ミフネが何らかの形で自らの役割や個性を再認識して成長し、AI艦を説得してヴィマーナを救う流れが無難です(個人的には)。ですが、実際の第10話は違いました。

AI艦に搭載されたAIとミフネの「心」を描くことで、これまでの『Λ』では描かれていなかった「心」と「心」のぶつかり合いを描いたのです。セイレーネスに対する調査あるいは戦闘という一方通行的なドラマの続いていた『Λ』にあって、第10話は、地球製のAI艦というガジェットを用いてミフネとの双方向的なドラマを描きました。それは、『アダム』の時とはまた別の立体感を『Λ』にもたらしたと考えます。

以下に、今回のドラマに対する私見を述べていきます。

 

第10話で描かれたAIは、とても未熟な存在でした。セイレーネスはそこにつけこみ、ハッキングをしたわけです。もちろん、あの世界や少年の置かれる状況はセイレーネスが用意したものですが、少年の未熟な「心」は、セイレーネスがハッキングをする前からそこにあったのでしょう。そして、ミフネは少年の不安定な「心」に寄り添う、「救い」になりました。それはミフネの強さであり、優しさだったと思います。

今回のドラマが少なからず読む人の心を温めたのは、そこに優しさが描かれていたからだと思います。もちろん、ミフネの行動は自己犠牲的、献身的で、それはある種の「ヤマトっぽさ」ではあるのですが、それ以上に、「心」や人間性が持つ優しさを描いたことが、人間性を重んじる『宇宙戦艦ヤマト』のテーマにマッチしたのだと考えています。

今回の『Λ』を読んで痛感したのは、優しさという、人間ドラマにおいても最も普遍的なテーマを、私自身もつい忘れてしまっていたことです。それと同時に、これまでの『宇宙戦艦ヤマト』、特に近年の『宇宙戦艦ヤマト』は、果たして優しさをどこまで自覚的に描くことができていたのか、と考えさせられもしました。もしかしたら、最近の『宇宙戦艦ヤマト』もまた、優しさを描くことをついつい忘れてしまっていたのかもしれません。

オリジナル版の古代進が、あれほどに好戦的で暴力的(?)でありながら愛されるキャラクターになったのは、その一方で優しさが描かれていたからなのではないか……。今回の『Λ』を読んで、私はそんなことを考えました。

多分に漏れず『宇宙戦艦ヤマト』も人間ドラマを重んじる作品ですが、『アダム』を読む限り、吾嬬さんもまた人間ドラマを重んじるクリエイターです。”吾嬬竜孝に『宇宙戦艦ヤマト』を描かせる――”。『Λ』第10話は、今作のコンセプトが持っている魅力をいかんなく発揮した回だったと、私は考えます。