こんにちは。ymtetcです。
全くの個人的な事情ですが、『エヴァ』と『月がきれい』の同時完結に直面してしまい、思考の渋滞が起こっています。
『エヴァ』についてはまだまだご覧になっていない方も多いでしょうから、しばらくは感想も触れずにいきます。ただ『月がきれい』に関しては、記事数本分のメモが手元に残されてしまって渋滞しているので、メインブログ(『宇宙戦艦ヤマト』)とサブブログ(『宇宙戦艦ヤマト』以外*1)を同時並行させることはできないかと目下検討中です。
さて、前回の記事「「不確かなものに賭ける」ヤマトらしさ」の中で、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズ作品の基本構造は「ヤマトが地球人類を救う」ことにあると述べました。それは考えてみれば当たり前の話ですが、『宇宙戦艦ヤマト』作品を考える上では意識的でありたい一つの”軸”だと考えています。
今日はこの話をもう少し、前進させてみます。
- 〇「ヤマトが地球人類を救う」物語
- 〇「人類を救うことができた理由」の連鎖
- 〇「地球人類を救えないかもしれない」状況の克服物語
- 〇「ご都合主義」との親和性
- 〇「ご都合主義」を防ぐために
- 〇『Λ』最新話公開
〇「ヤマトが地球人類を救う」物語
『宇宙戦艦ヤマト』作品は、基本的に「ヤマトが地球人類を救う」物語です。
ゆえに、『ヤマト』作品には「(他の艦ではなく、)ヤマトが地球人類を救うことができた理由」が溢れています。例えば『Ⅲ』で、(アリゾナやノーウィック、ビスマルク、プリンスオブウェールズではなく)ヤマトが地球人類を救うことができたのは、ハイドロコスモジェン砲を手に入れたからです。
〇「人類を救うことができた理由」の連鎖
このような「ヤマトが地球人類を救うことができた理由」は、「なぜ」と問い続けることで遡ることができます。
例えば、なぜヤマトがハイドロコスモジェン砲を手にすることができたのか。それはルダ王女と出会ったからです。では、なぜヤマトはルダ王女と出会うことができたのか。それは惑星ファンタムを訪れたからです。では、なぜファンタムに辿り着くことができたのか。それはデスラーとの友情があったからです。では、なぜ……。
こういった具合ですね。
この問いの連鎖は、旧『ヤマト』シリーズの最新作である『復活篇』から遡っていったとしても、最終的には『ヤマト』第一作の冒頭、地球が波動エンジンを手に入れ、それをヤマトに搭載したから、というところに行きつくと思います。
すなわち、『ヤマト』作品における「ヤマトが地球人類を救うことができた理由」は、構造的に捉えることができるのです。『復活篇』でヤマトが地球人類を救ったことと、『Ⅲ』でハイドロコスモジェン砲を得たこと、最初の『ヤマト』で地球が波動エンジンを得たことは無関係ではありません。『2202』風に言えば、何か一つでも欠けていたなら、ヤマトは地球人類を救うことができなかったかもしれないのです。
〇「地球人類を救えないかもしれない」状況の克服物語
『ヤマト』作品は「ヤマトが地球人類を救うことができた理由」の集合体。
そう読み解くと、あたかも『ヤマト』は予定調和的な物語なのではないか、と思えてきます。ですが、私たちが知るように、『ヤマト』作品は必ずしもそうではありません。実際は、結構ハラハラさせられる作品でもありますよね。それは、『ヤマト』作品には「ヤマトが地球人類を救えないかもしれない」状況が溢れているからです。
『ヤマト』作品は、「ヤマトが地球人類を救えないかもしれない」状況を創り出すことによってドラマを盛り上げてきました。例えば最初の『ヤマト』、ガミラス軍の差し向けたミサイルがヤマトに迫るあの状況は、まさに「ヤマトが地球人類を救えないかもしれない」状況。ヤマトは、このような「地球人類を救えないかもしれない」状況を一つ一つ乗り越えて、最後には地球人類を救うわけです。
この構成もまた、一種の「ヤマトらしさ」なのだと私は思います。
〇「ご都合主義」との親和性
ところが、この「ヤマトらしさ」は重大なリスクをはらみます。
それは、先に触れた「予定調和的な物語」、すなわち「ご都合主義」に陥る危険性です。
『新たなる』『2520』といった例外はあるものの、『ヤマト』作品は基本的に「ヤマトが地球人類を救う」筋書きを変更することはありませんでした。『ヤマト』作品では「ヤマトが地球人類を救う」ことは絶対的な要素であるとも言えます。
ですから、たとえ作り手がどんなにいいアイデアを思いつかなかったとしても、どんなに打ち切りでストーリーの省略を余儀なくされても、どうにかして「ヤマトが地球人類を救う」方向に物語を進めなくてはならないのです。「ヤマトが地球人類を救うことができた理由」を、多少無理やりにでもストーリーに配置しなければなりません。
こうして、いくつかの『ヤマト』作品では人間の創る商業作品ゆえの限界が露呈し、一部から「ご都合主義」と批判されるに至ったのだと私は考えます。「ヤマトが地球人類を救う」という動かすべからざるゴールが、『ヤマト』と「ご都合主義」の親和性を高めてしまったのです。
〇「ご都合主義」を防ぐために
「ヤマトが地球人類を救う」という筋書きは、「ヤマトらしさ」を構成する重要な要素ではありますが、「ご都合主義」を発生させる原因の一つでもありました。
では、「ヤマトが地球人類を救う」筋書きを変えればいいかと言えば、必ずしもそうではありません。もちろん、疑うことは大切ですが、そこを変えて果たして『宇宙戦艦ヤマト』たりえるのかと考えると、私は正直、確信はできません。
とはいえ、「ヤマトが地球人類を救うことができた理由」を考え続けることに、ある種の限界があることも事実です。もちろん、「ヤマトが地球人類を救うことができた理由」をクリエイターに考えさせることも大切ですが、同時に『宇宙戦艦ヤマト』のコンパクト化を図ってもいいと私は考えています。
「ヤマトが地球人類を救う」テレビシリーズを何作品も作り続けることは、もう難しいのではないでしょうか。劇場版を中心にコンパクトな物語を複数展開した方が、商業的にはともかく内容的には充実するのではないかと私は思っています。