こんにちは。ymtetcです。
公開から一カ月が過ぎましたので、今日は、月並みながら『シン・エヴァ』の感想を書きたいと思います。
〇ごちゃまぜの映画
『シン・エヴァ』は、特にその終盤において、それまでの『エヴァ』の全てを肯定する手法をとりました。方向性そのものは『ヤマト2202』最終話の「なんでもあり得た、なんでもあり得る」とよく似ていますが、『エヴァ』の方が、後発なこともあってかさらに踏み込んだ描写に挑戦していますね。
『シン・エヴァ』は、「ゴルゴダオブジェクト」と呼ばれる要素が登場してから、敢えてメタ的な演出を取り入れていきました。旧作よろしく作画途中の絵を流してみたり、特撮用の模型の中でエヴァ同士を戦わせてみたり、マンションの一室の中でエヴァ同士を戦わせてみたり。いくら『エヴァ』の世界観であっても、到底”リアル”とは言えない映像を敢えて盛り込んでいました。
ここでは、現実と虚構が混じり合う、との表現も使われていたと記憶しています。これこそまさに、これまでの『エヴァ』の全てを肯定する手法だと言えます。
〇全肯定の映画
『エヴァ』シリーズの展開は多岐にわたっています。
最近ネットミーム化している「和太鼓を叩くリツコ」が実は公式絵だった、という事実も知られるようになりましたが、ゲームなどのサブコンテンツを含めると、『エヴァ』の世界は実に多様な姿を見せています。また、庵野さんが作った旧シリーズと新劇場版の違いもまた、『エヴァ』の多様性の一つだと言えます。
さらに、こういった公式サイドの『エヴァ』に加えて、ファンが受容し、ファンの心の中で形を変えてきた『エヴァ』も、この25年間で確立されてきています。二次創作もそうですし、ファン一人ひとりのこだわりもそうでしょう
『エヴァ』新作をめぐる状況は、それこそ『宇宙戦艦ヤマト』が今置かれているように、”どんな作品を作っても誰かが怒り出す”、かなり窮屈な状況だったと言えます。
そんな中、ゴルゴダオブジェクト登場以降の『シン・エヴァ』は、
を、敢えてごちゃ混ぜにして描くことに成功していました。
作画途中の絵を見せることで、この作品があくまで作り物であることを示す。作り物だから、ミサトの部屋の中でエヴァが戦うことだってできるし、いきなり実写映像に切り替えることだってできる。後付けでタイトル回収をしたっていい。
そうやって、「これはあくまで作り物なんだよ」と示し、その一方で「だからといって虚構でもないんだよ」と示すこと。それが、『シン・エヴァ』の終盤にあったものだと私は思います。
〇虚構もまた現実なり
よく『エヴァ』のメッセージとして指摘されるのが、「現実に帰れ」です。そのメッセージの背後にあるものはどこか、庵野さんがアニメに対して冷めているから、オタクに対して冷や水を浴びせたいからだと考えられてきました。
今回も、「現実に帰る」ことは一つの柱だったように思います。でもそれは、『エヴァ』という虚構も私たちの生きる世界も、等しく「現実」なのだという力強いメッセージに転換されていたのではないでしょうか。
私はそこに、艱難辛苦を乗り越えてシリーズを完結させた庵野監督だからこそ提示できるメッセージが込められていたように思います。庵野監督が作り出した『エヴァ』も、ファンが受け止めた『エヴァ』も等しく「現実」。この現実世界で、これからも僕たちは生きていくんだ。私は好きにした、君らも好きにしろ……見事なシリーズ完結編でしたね。