ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

『さらば』の古代とデスラーはなぜ「好敵手」だったのか?

こんにちは。ymtetcです。

『ヤマト』シリーズには「好敵手」という歌があります。古代進デスラーの、友情にも近いライバル関係を歌い上げた曲で、今も根強い人気を誇っています。

ですが、この曲は『ヤマト2』のテーマソングではありません。『さらば』のテーマソングなのです。今日から見れば、『ヤマト2』は後の『新たなる』『ヤマトⅢ』に続く「古代とデスラーの友情」を作り上げる起点となった作品であり、ここに「好敵手」のイメージはよく合います。一方『さらば』では、ヤマトに対する復讐を誓うデスラーと地球を救おうとする古代の対決が描かれ、デスラーはそこで自ら死を選びました。友情めいたものは芽生えるのですが、直後に死別してしまうので、『さらば』はあまり「好敵手」のなんたるかが掴みづらいと言えます。

そこで今日は敢えて、『さらば』における二人がなぜ惹かれ合ったのか、を考えてみましょう。

『2202』の言葉を借りれば、『さらば』の古代進は「望んでいた未来に裏切られている」状態にありました。そしてそれは、デスラーも同じだと考えます。だからこそ、二人は再会するとすぐに惹かれ合い、束の間の友情を芽生えさせたのではないでしょうか。

デスラーは祖国の命運を背負って取り組んだ地球侵攻作戦でヤマトに敗れ、祖国は滅亡し、命からがらガトランティスに保護されて、生き延びています。デスラーの実現したかったことは「ガミラスを守ること」ですが、それは実現しないまま、自分だけが生き延びてしまっているのです。『さらば』のデスラーは、「ガミラスを救えなかった」自分自身に対する葛藤を抱えています*1

一方の古代も、自分の望んだ世界を実現できずにいます。それはガミラスを滅ぼしてまで守り抜いた地球の未来でした。古代はそんな未来を生き延びてしまっているのです。古代の実現したかったことは「愛しあうこと」と「地球を守ること」の両立ですが、未来はそれと完全に逆行(アンドロメダの建造、宇宙の危機に起ち上がろうとしない)してしまっています。それでも、古代は生き延びてしまっている。

『さらば』の二人は、こうした叶わぬ理想に対して、自分の気持ちをいかに整理するかという一点で、共感し合える関係にあります。

デスラーにとってそれは命を賭してでもヤマトに復讐することであり、古代にとってそれは、命を賭してでも新たな敵から地球を守り抜き、人間にとって一番大切なことが「愛すること」だと証明することでした。

二人はそこで、「生きる」ことを前提にはしていません。例え自分の命を差し出すことになろうとも、二人は自分の気持ちに決着をつけようとするのです。

最後は二人とも、自らの意志でその体を投げ出しました。二人が命を投げ出すことに葛藤しなかったのは、生き延びること以上に、生き延びることの苦しみに対していかに決着をつけるのかということに葛藤していたからなのだと思います。

*1:そう考えると「大ガミラスもとうとう私一人になったか」との台詞は、デスラーの指導者としての責任感を表現したものと捉えることもできそうです。