こんにちは。ymtetcです。
宣言通り、週末に映画『ヤマトという時代』を観てきました。
今日から少しずつ、映画の感想を書いていきます。
というのも、私は未だ、映画の膨大な情報量を消化しきれていません。
『ヤマトという時代』、評価の難しい映画でした。総集編としてはかなりのレベルの高さ、しかし(だからこそ)……というところで、もう少し時間をかけて考えてみたいと思います。
— ymtetc (@ymtetc) 2021年6月12日
率直な第一印象として、実は私の評価は芳しくありませんでした。鑑賞直後にとったメモでは、ほとんどが私の考える映画の課題を記録したものばかりです。
しかし、実際に映画を観ていた時の私は、決してそれだけではありませんでした。「そういうことか!」と納得してみたり、「すごいな」と驚いてみたり、感動して涙腺を刺激されてみたりと、きちんと楽しんでいたのです。
ということで、もう少し時間をいただきたいと思います。
今は配信で復習をしているところです。それが終わればオーディオコメンタリーと続きます。映画『ヤマトという時代』を楽しむ時間は、まだまだこれからだなと感じます。
さて、今回の記事の内容は、これに尽きます。
もしも『時代』が「古代守‐真田志郎‐古代進」だけを軸にドラマを仕立てていたなら、私は何回でも泣いていたと思います。でもそれでは総集編にならないんですよね。初見の人が『2205』を観るために必要な情報も網羅できない。そこが本当に難しかったのだろうと思います。
— ymtetc (@ymtetc) 2021年6月13日
『ヤマトという時代』の評価は難しい。その理由は、映画が二つの役割を担っているからです。
一つが、「真田志郎と古代兄弟のドラマを中心に、イスカンダルへの旅とガトランティスとの戦いをドラマチックに再構築する」役割。
もう一つが、「『2205』に向けて、初見の人が必要とする情報を『2199』『2202』から網羅的にピックアップする」役割です。
前者の役割に注目すれば、映画の評価は基本的にはドラマ中心となります。そして、後者の役割に注目すれば、映画の評価は基本的には情報中心となるでしょう。
なお、後者の役割に対する評価は、『2205』を観ていない現在では到底評価できませんし、そうでなくても、「初見の人」ではない私には客観的な評価はできません。
総集編なので恐らく「初見の人が内容を理解できるかどうか」も評価軸になると思いますが、それを私たちが評価するのは難しいです。それを客観的に評価できるのは初見の人だけです。しかも『2205』を観た時に、初見の人が「話が繋がった!」と思えるかどうかも重要です。
— ymtetc (@ymtetc) 2021年6月13日
ゆえに鑑賞時の私は、主に前者の役割にばかり、無意識的に集中していたのだと思います。結果、鑑賞時の私の評価は、
いらない情報が多過ぎる
でした。少々トゲのある表現ですが、正直なところドラマだけに注目すれば、もっとコンパクトにできる映画だったと思います。
しかし、それをもって福井さんや皆川さんを批判することは、アンフェアだとも思います。なぜならこれは、『2205』を楽しむための総集編であり、真田や古代のドラマ云々よりも、シリーズ的にはそちらの方が重要だからです。
現時点で言えることは、私にとって『ヤマトという時代』は優秀な総集編であると同時に、ドラマとしてはもっといいものができたのではないかと感じる不完全燃焼なものだったということです。それをもっと具体的にどう言語化できるのかは、もう少し時間をいただければと思います。
現状のまま記事を書いていけば、『ヤマトという時代』に対して批判的に見える内容も出てしまうかもしれません。ですが繰り返しになりますが、映画を観ている時、「いい」と感じたシーンがたくさんあったことも事実なのです。今はたまたま、「うーん」と感じたシーンの言語化が進んでしまっているだけなのだと思います。今少し、この挑戦的な映画と戦いたいと思います(笑)。