こんにちは。ymtetcです。
2205のキャラメカ設定、必死に2199の背中を追いかけている感じがして、かわいいですね。
— ymtetc (@ymtetc) 2021年9月22日
先日、『ヤマト2205』のキャラクター、メカ設定が公表されましたが、私の感想は総じてこれです。
さて、そろそろ舞台は『アクエリアス・アルゴリズム』、そして『宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち』へと移行しつつありますが、今日は『ヤマト2202』と『さらば』の関係について、ある仮説を思いついたので、それを書いてみたいと思います。
『ヤマト2202』の「企画メモ」で、福井さんは『さらば』の物語を”ヒューマニズムが現実に勝利する”物語だと分析していました。この分析が間違っているかどうかも重要な論点ですが、私自身は決して間違いであるとは思いません。しかし、この解釈を重視し過ぎたからこそ、『2202』は多くの人に届かなかったのではないでしょうか。
まずは「企画メモ」から、福井さんの『さらば』分析を引用してみましょう。
多くの若者がその光景に涙し、陶酔し、現実世界では決して叶えられない理想の勝利に熱狂しました。特攻賛美である、と眉をひそめる大人たちもいましたが、一面的な物の見方でしょう。あの対消滅の本意は愛国心の鼓舞などではなく、ヒューマニズムが過酷な現実を折伏するファンタジーを謳い上げることにあったのですから。
(「『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(仮)企画メモ」『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち -全記録集- シナリオ編 COMPLETE WORKS』KADOKAWA、2019年、219頁。)
福井さんは、『さらば』の物語を「理想の勝利」であり、「ヒューマニズムが過酷な現実を折伏する(屈伏させる――引用者注)ファンタジー」であるとしています*1。そして同時に、「特攻賛美である」との見方は「一面的」であると批判してもいます。
この福井さんの『さらば』解釈に従って、『2202』の物語は"便利な時間断層を犠牲にして「どこにでもいる普通の男」を救う"という「ヒューマニズム」が、”国益のために「どこにでもいる普通の男」を見殺しにして時間断層を保持し続ける”という「過酷な現実」を屈伏させる物語として構成されました。
しかし、ここで立ち止まって考えたいのは、『さらば』に「涙し、陶酔し」た人々が大勢いた、その要因です。
果たして、『さらば』の物語に「涙し、陶酔し」た人々は、全員が「ヒューマニズムが過酷な現実を折伏するファンタジー」に「涙し、陶酔し」たのでしょうか?
それこそ、「眉をひそめる大人たち」が懸念したように、”命を投げ出して大切なものを守る”ということへの賛美に「涙し、陶酔し」た人々もいたのではないか。あるいは、単にキャラクターが苦しみ、死んでいく姿に「涙し」た人々も少なくないのではないか。そう私は思うのです。
すなわち、この様々な「涙」する要素によって”すすり泣きに包まれた劇場”という共通の経験を作り出したこと、それこそが、あの1978年に『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が巻き起こしたムーブメントの本質なのかもしれません。
ここで、一つの仮説を提示したいと思います。
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『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は、「ヒューマニズムが過酷な現実を折伏するファンタジー」として、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』をリメイクした。しかし、1978年に日本社会を席巻したあのムーブメントは、単に「ヒューマニズムが過酷な現実を折伏するファンタジー」によるものだけではなく、もっと複合的なものだった。だから、「ヒューマニズムが過酷な現実を折伏するファンタジー」だけをリメイクした『2202』は、『さらば』に「涙し、陶酔し」た人々の一部分しか取り込むことができなかった。
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こんな仮説です。
もちろん、どんなリメイクであったとしても、あの『さらば』に匹敵するような数字を残せなかったことは間違いないでしょう。ですが、『2202』が日本社会に残したものは、原作の知名度を踏まえればあまりにも小さすぎるものだとも、私は思います。
その要因はもちろん多岐にわたりますが、敢えて一言で表現するとすれば、
だと言えるのではないでしょうか。