ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2205】平和主義の象徴としてのヤマト

こんにちは。ymtetcです。

今日は『ヤマト2205』を題材に、昨年からの課題である、劇中の「宇宙戦艦ヤマト」の描き方について、考えていきたいと思います。

○<宇宙戦艦>としてのヤマトと古代進

そもそもヤマトは、地球防衛軍の「宇宙戦艦」です。であれば、その建造目的は「地球人類と地球の国益を守る」ことにあります。

ですが、『宇宙戦艦ヤマト』の物語の中では、時にヤマトは「地球人類と地球の国益を守る」ことを超えた、「宇宙の平和や人命を守る」ために戦うこともあります。『さらば』や『復活篇』がその例です。

このように、ヤマトを本来の目的以上の用途で使うのは、ヤマトの乗組員の判断によるものでした。すなわち、ヤマトそのものは「地球人類と地球の国益を守る」ための存在でありながらも、古代進をはじめとする乗組員がそれ以上の目的のために使うこともある、としてきたのが、これまでの『宇宙戦艦ヤマト』だったと言えます。

○『ヤマト2205』におけるヤマトと古代進

両者の対比的な様子は、従来の『ヤマト』では、さほど意識されていなかったことと思います。

ですが『2205』は(このギャップに気づいたのかは定かではありませんが)、ヤマトを「軍備より人命を尊んだ地球の平和主義の象徴」と位置づけました。もちろん、「軍備より人命を尊ぶ」は防衛軍のコストカット路線の建前でもあり、ヤマトはその喧伝に利用された……という劇中設定にはなっています。

それでも、「ヤマトは軍備より人命を尊んだ地球の平和主義の象徴である」との命題は、『2205』における宇宙戦艦ヤマトの役割を示唆するフレーズとして機能していたと考えます。なぜならヤマトは実際に、地球の国益よりも人命を優先する判断で「反乱」を起こし、イスカンダルへと向かうからです。

「ヤマトは軍備より人命を尊んだ地球の平和主義の象徴である」。従来の『ヤマト』が実質的に取り組んでこなかったこの命題が成立した大きなきっかけは、『2202』のラストにありました。”古代進”という人間は、旧作以来「宇宙平和や人命を尊ぶ」人物として描かれてきましたが、その彼が『2202』では、生きながらにして高次元宇宙に取り残されることになりました。彼を救出するために、軍備、ひいては地球の国益である時間断層を犠牲にすべきだと主張したのがヤマトクルーであり、実際にミッションを決行した戦艦が宇宙戦艦ヤマトだったわけです。

ここにヤマトは、「国益よりも人命を尊ぶ」古代進の思想を象徴する役割を、担うことのできる存在となりました。

この『2202』を受けた『2205』は、ヤマトが「軍備・国益よりも人命を尊ぶ」考え方の象徴だと、明確に表現しました。なんといっても、『2205』前章の”結論”は、「ヤマトはただの戦艦ではない」「平和を求め、争いを憎む、地球人の理想に基づいて、ヤマトは一人でも多くの人を救出するです。

ここに、『2205』は古代進たちヤマトクルーのみが象徴してきた「人命を尊ぶ」思想を、「宇宙戦艦ヤマト」という存在にも背負わせたと言えます。

○後期『ヤマト』で強調される思想の先取り

旧作『新たなる旅立ち』でヤマトがイスカンダルに向かったのは、宇宙平和といった大きな視点よりも、むしろかつての恩義といった実際的な視点から判断したものでした。『ヤマト10年の賦』で歌われた「お前は平和の使者となる」のような「宇宙平和の使者としての宇宙戦艦ヤマト」像は、『新たなる旅立ち』で提起されたものではなく、『完結編』に至るシリーズの後半、すなわち後期『ヤマト』で構築されたものだったと考えます。

その前提に立つと、『2205』が前章を通して行った「人命を尊んだ平和主義の象徴としての宇宙戦艦ヤマト」は、これまで『2199』や『2202』が行ってきたような”後期作品の要素を先取りで取り入れる”ことと、本質的には近いのではないでしょうか。

以前私は『ヤマトという時代』に「『宇宙戦艦ヤマト』の再定義」を期待した記事「宇宙、戦艦、ヤマト:映画『ヤマトという時代』」を書きましたが、実は『2205』は、無意識的に、「宇宙戦艦ヤマト」の再定義を行った作品であったのかもしれませんね。