こんにちは。ymtetcです。お久しぶりです。
今日は一週間越しに、『宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち』後章「STASHA」の第一印象を書いていきます。第一印象がこの一週間ブログをお休みしていた理由とかかわっていますので、まずはその話からしていきます。お忙しい方は、ぜひ目次の「『宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち』の意義」からご覧になってください。
○ymtetcと『2205』後章
ブログをお休みした理由は二つあります。一つは、『2205』後章の第一印象が、正直なところ芳しいものではなかったこと。もう一つは、その原因が分からなかったことです。
『2205』後章を観終わって劇場を出た時、「厳しい」「詰んだ」「どうすればいい?」の三つのフレーズが頭をぐるぐると回っていました。それは作品が観客を楽しませようとしているのに、私はそれを楽しめなかったからです。
あらゆる映画には賛否両論があります。であれば、それこそ『2202』第五章の時のように、私は単に「否」の側に回ってしまっただけかもしれません。
ですが、それもまた違いました。SNSに流れてくる「否」の感想はもちろんのこと、各種レビューサイトを見ても、それには全く同意できない。では「賛」の感想はどうかと言うと、”私の心は遥かに君たちに近い”状態ではあるものの、共感は全くできない。さらに、日頃からネットで私が(一方的に)信頼を寄せている皆様が、揃って『2205』後章を楽しんでいたことも、私には受け入れ難い事実でした。
そこで思い浮かんだのが、私が『2205』を読み解く上で、どこかに決定的な間違いをしてしまっているのではないか、ということです。
それを考えるために、一週間のお休みをいただきました。
○『2205』後章とymtetc
では、私が『2205』後章を楽しむことができなかった最大の原因は、一体どこにあったのでしょうか。
それは、古代進に感情移入できなかったからです。
『2205』には、10代の土門たち、20代半ばの古代たち、30代の真田たち、40代の薮、50代~の山南たちが登場します。10代は「若者」、30代以降は「大人」として描かれるなか、20代の古代たちは「若者」と「大人」の中間の存在で描かれていました。
そして年齢上、私が最も感情移入しやすいのは、20代半ばの古代たち。『2205』前章での推しが古代、北野、星名であったのは、必然だったと言えます。
しかし、『2205』後章の古代には、どうにも初見では理解のしがたい行動が多かったのです。
それは、作品だけに責任があるわけではないと私は思います。作品が持つ「ここまで描けば分かってくれるだろう」という演出の情報量に対して、私の理解力が及ばなかっただけと考えた方が、実態に近いでしょう。
『2205』の古代進については、まだ整理できていない部分も多いので、記事を改めたいと思います。
○『宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち』の意義
最後に、作品としての意義、よいところについて言及しておきましょう。
本作は極めて真っ当な、「新たなる旅立ち」のリメイクでした。福井さんたちが、『2202』で「愛の戦士たち」なるフレーズと向き合った時と同じように、『2205』もまた、「新たなる旅立ち」に真摯に向き合った作品であったと思います。
私は、「新たなる旅立ち」という言葉と、「明日への希望」という言葉はセットだと考えています。「明日への希望」があるからこそ、人は「新たなる旅立ち」をすることができるのです。
では、『2205』における「新たなる旅立ち」=「明日への希望」とは何でしょうか。これは『2202』における「愛の戦士たち」のように、とても重層的に描かれていました。
まさに福井・岡体制の真骨頂と言えます。
まずはデスラーです。彼にとって受け入れがたい「イスカンダルとガミラスの真実」と、それでもなお、さらに受け入れがたいスターシャとの別れ。しかし古代の行動によってスターシャとの別れを受け止め、「明日への希望」を得たデスラーは、新天地ガルマンへ向けて旅立ちます。
次に土門です。こちらも彼にとって受け入れがたいものだった、父親との別れ。そして、尾を引き続けた、父親の最後の笑顔。デスラーを介して父親の想いを知った時、土門はようやく父親との別れを受け止め、(デスラーと同じように)「明日への希望」を抱くことができるようになったのではないでしょうか。
さらに薮です。家族を失ったかもしれない不安は、彼にとって受け入れがたいものだったことでしょう。しかし薮は最後に、家族と再会します。それはまさしく「明日への希望」だったのではないでしょうか。
最後に古代です。彼はよく分かりませんが、土門の行動によって自分が間違っていたことに気づき、思い出し、そして「明日への希望」……新たな命を目の当たりにしました。
『2205』を読み解く上で、一つのキーワードになるのが「別れ」です。いつか、どこかで必然的に訪れる、愛する存在との「別れ」。受け入れがたい「別れ」とどう向き合い、受け止めるかが『2205』の一つのテーマであったように思います。
スターシャは、そこから目を背けて閉じこもっても、それは最早死んでいるのと同じだと述べます。「別れ」から目を背けても、人は前には進めない。『2205』にはそんな思想が流れていると言えます。
だからこそ、デスラーや土門のように、「別れ」をしっかりと受け止めることが「明日への希望」となり、「新たなる旅立ち」のための第一歩となり得るわけです。
人生という旅路を進むことは、大切な存在との「別れ」が刻一刻近づくことでもあります。それでも、人間は歩みを止めてはいけない。涙を流し、「別れ」をしっかりと受け止めて前に進むこと(=「新たなる旅立ち」)にこそ、生きることの本質がある。
本作は、「新たなる旅立ち」という言葉にそんな意味を込めたのではないでしょうか。
これこそまさに、福井さんのいう「本質のアップデート」。『宇宙戦艦ヤマト』の最新作でありながら、これまで何気なく見過ごしてきた『ヤマト』の言葉や思想に、真摯かつ誠実な作品であったと私は思います。