ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

【ヤマト2205】古代が土門をヤマトに残した理由

こんにちは。ymtetcです。

今回は、先日ツイッターでメモ書きした「古代が土門をヤマトに残した理由」について、改めて私見を述べていきます。

〇「それでも……」以下に何を補うか

あいつは俺なんだ。兄さんのことが許せなくて、試す目で沖田艦長を見ていた時の俺と。いや違う、もっと重い。俺の命と引き換えに、あいつは父親を失ったのだから。犠牲に見合う価値を示せるとは思えない。艦長としては、あいつを降ろすのが正解だったのかもしれない。それでも……

「(俺はあいつに俺を見ていて欲しかった)」。

私は最近、このような言葉を補うようになりました。

〇「時間断層の代わりに生還した人」

古代が土門をヤマトに乗せ、残したのは、土門こそが「古代進」という人間の内面に、面と向かって入り込んで来てくれる人間だと直感したからだと考えます。

 

西暦2203年、古代はあの国民投票によって救われ、世間から好奇の目を向けられるようになりました。ですが、世間は古代と距離をおいたことでしょう。

世間が賛否両論であったことは間違いありませんが、問題はその中身です。

人間には、他者との関わりによって自己像を形成していく側面があります。しかし、世間の誰も、古代に対して「時間断層の代わりに生還した人」の肩書き以上に踏み込んではきません

「古代さんと森さんが救われてよかった」「あんな軍人二人のために時間断層を犠牲にするなんて」。せいぜいその程度でしょう。唯一、古代のことを人間として理解しているのは雪、島、真田くらいのものでしょうが、付き合いが長く深い彼らは、古代にとってはもう"他者"ではない……。

「時間断層の代わりに生還した人」という他者からの虚像(それは旧作でいう「英雄」に等しい)を押し付けられた古代は、自己像を見失い、「あるべき古代進」という虚像に囚われるようになりました。だから古代は英雄の丘で、沖田にこう言うのです。

6年前、あなたと共に歩んだ道。でも、あの頃とは何もかもが変わってしまった。地球も……私という人間も

(『2202』より、多くの犠牲を目の当たりにし、高次元世界に留まろうとする古代)

○「家族の人生を犠牲に生還した人」

しかし土門は、世間一般以上に、古代進の内面へ迫ろうとしてきました。

「背負えるんですか? たかが一人の人間が、全ての地球人の運命を」。

「あんた一人のヤマトじゃないだろ」。

土門は古代を責めているようで、実は「時間断層の代わりに生還した人」というラベルの向こう側へ踏み込もうとしています

土門にとって古代は「時間断層の代わりに生還した人」ではなく、「家族の人生を犠牲に生還した人」です。時間断層という政治、軍事、経済の利益ではなく、家族という大切な存在を犠牲に古代は生還した。だからこそ土門は、古代が人間としてどうあるのかに、大きな注意を払っています。

古代進を試そうとしている土門は、古代にとっては久々の、「人間としての古代進」に向き合ってくれる存在だったのかもしれません。

○見失った「自分像」を取り戻す旅路

土門竜介は、「時間断層の代わりに生還した人」という古代進に貼られたラベルの向こう側に踏み込もうとした存在でした。

古代は土門のそんな姿に自分を重ねつつ、土門のような人間が自分を見ていてくれるなら、「自分像」を見失った自分自身も救われるかもしれない、と直感したのではないでしょうか。

以上が、『2205』第3話のセリフに、私が「俺を見ていて欲しかった」との言葉を補った理由です。

そして実際、古代は土門によって自己像を取り戻し、再び「明日への希望」を抱くようになります。これこそが、古代にとっての「新たなる旅立ち」……。

このように解釈すれば、福井さんのいう「古代進の魂の復権」にも繋がると考えます。

『2205』の古代については、視聴者の解釈に委ねられている部分が非常に多いです。

それだけに今回は、多様な解釈が可能かと思います。引き続き、この問題も含めて考えていきたいと思います。