こんにちは。ymtetcです。
福井さんは『2205』と『3199』の主題として、「『2』ではなく『さらば~』の続編として」を掲げています。福井さんの言葉を借りれば「ショー」になってしまった『2』以降のヤマトを、「作品」であった『さらば』と地続きの作品として蘇らせる。そのために、「第一作目を起源とするテーマ性」を復活させる。こうした議論が、『2205』の企画メモではなされています。
しかし実は、この方針そのものは、旧作と大枠で変わりがないようです。今日は、このことについて考えていきます。
〇福井さんの『2205』『3199』
福井さんは『2205』『3199』に対して、こう意気込みを述べています。
(『新たなる旅立ち』『永遠に』では)第一作目を起源とするテーマ性は失われ、『さらば~』までの切実な空気感も消え去って、「新たな侵略者に立ち向かうヒーローとしてのヤマトを大スケールで描く」”ショー”のみがそこにある。(略)
メインユーザーとなる往時の少年少女は、公開当時、『新たなる旅立ち』と『ヤマトよ永遠に』になにを期待していたのか。
(略)すなわち、あの『さらば~』の熱狂を引き継ぐ作品が見たかった。(略)
(『2205 全記録集』141頁)
福井さんは『新たなる旅立ち』『永遠に』に対し、「テーマ性」が失われていると指摘します。そして『2205』『3199』では、往時の少年少女が観たかったであろう「『さらば~』の熱狂を引き継ぐ作品」、具体的に言えば、「テーマ性」とストーリーが「有機的」に結びついた作品を目指す、としています。
ここまでの内容は「福井晴敏の”挑戦” 」でも書きましたが、私はこの福井さんのアプローチを読んだとき、福井さんが旧作の反省に立って、旧作を上回ろうとする挑戦的なアプローチをとった……と思っていたものです。
しかし実は、そうではありませんでした。
〇西崎さんの『新たなる旅立ち』『永遠に』
かつて西崎プロデューサーは、『新たなる旅立ち』と『永遠に』に対し、こう語っていました。
私はプロデューサーとして、(略)「人間は明日のために今日を生きる権利がある。だから、精いっぱい生きてゆこう」という呼びかけを、この第一作で行なったつもりである。(略)
ところが、ちょうど4本目の「ヤマト2」は、そうしたテーマ性が極めて稀薄になってしまい、プロデューサーのハンドメイド作品にならなかった点を、放映後につくづく感じたのである。(略)
そこからでてきた答えは、いたって単純であった。つまり、「第一作の原点――人間ドラマに戻して、新しいヤマトにしよう!」ということである。
(西崎義展「”さらば”から”永遠に”の軌跡」、太字は引用者)
西崎さんは「ヤマト2」に対し「テーマ性が極めて稀薄」であると指摘し、『新たなる旅立ち』『永遠に』は「第一作の原点」「人間ドラマ」を軸とした「新しいヤマト」を目指す、としています。
すなわち、「テーマ性」が失われていることは西崎さんも自覚しており、そのうえで、『新たなる旅立ち』『永遠に』で「テーマ性」を取り戻そうとしていたわけです。
この発想そのものは、福井さんと同じだと言えます。
〇コンセプトは同じ
福井さんは企画メモで、「原作も一作目由来のテーマを完全に忘れたわけではありません」と述べていました。しかし原作も、「完全に忘れたわけではない」どころか、意識的に「一作目由来のテーマ」を復活させようとしていたようです。
すなわち旧『新たなる旅立ち』『永遠に』とは、決して「テーマ性」を軽視した結果「テーマ性が失われ」たのではなく、「テーマ性」を重視したにもかかわらず、結果的に「テーマ性が失われ」た作品になってしまった、ということです。
そう考えると、この議題は今少し掘り下げる余地があると思います。方針だけでは成功は約束されない、大切なのは実際にどんな作品にするかだ……旧作が『2205』『3199』とよく似た方針をとっていたのに失敗したということは、こうした作品づくりの原点に立ち返って議論をする必要がありそうですね。