こんにちは。ymtetcです。
『ヤマト2205』の挿入歌「別離」は、福井さんの希望で使用されました。
――あとは音楽の使い方が印象的で、なかでも堀江美都子さんの歌う「別離」が流れるシーンは圧巻でしたね。
福井〇台本の段階から、ここで使おうと指定を入れていましたからね。
(略)
福井〇あの曲で40年前と40年後の今の自分が出会うんですよ。(略)昔からずっと「ヤマト」を観ていた自分を肯定できるというのが、このリメイクシリーズの最大の意義でもあると思うんです。
そのことについて福井さんは、「40年前と今の自分が出会う」「昔から『ヤマト』を観ていた自分を肯定できる」として、過去作オマージュの意義を論じています。
今日は、このことについて考えます。
〇旧作を重視し続けてきた福井さん
福井さんは、『2202』でも『2205』でも、製作委員会から「旧作に囚われる必要はない」と言われています。しかし福井さんは、一貫して旧作を重視する作風を続けてきました。その意義を「昔から『ヤマト』を観ていた自分を肯定できる」と位置付けたあたり、さすがの言語化だと思います。
〇『ヤマト復活篇』を想う
ここでふと、『復活篇』で過去作要素が軽視されたことに思い至りました。
『復活篇』には音楽を含め過去作の要素がいくつかありましたが、それは終盤にかけて減っていきました。また、それこそ「別離」のように、過去作要素であっても、過去作とは全く違う使われ方がされることもありました。その意味で、『復活篇』の過去作要素には「懐かしさ」こそあれ、福井さんのいう「昔から『ヤマト』を観ていた自分を肯定できる」といった意義はなかったと思います。
その理由も、福井さんの議論から考えることができるのではないでしょうか。
すなわち、福井さんのいう「意義」が成立するためには、「昔から『ヤマト』を観ていた自分」が存在しなければなりません。つまりどこまでいっても、この議論のなかでもっとも価値があるとみなされているのは「昔からの『ヤマト』」なのです。『復活篇』を新しい価値を作り出すために、過去作要素はあくまで「懐かしさ」レベルに留めておいた……と考えれば、従来の『復活篇』論を整理することもできると思います。
〇『ヤマト2205』で私の身に起きたこと
なお、福井さんのいう「最大の意義」と同じことが、私にとっては『2205』で起きました。『2199』と『2202』双方の要素を盛り込んだ『2205』は、私にとって「リメイク・ヤマトを10年にわたって観てきた自分を肯定できる」作品だったと言えます。