ymtetcのブログ

偶数日に『宇宙戦艦ヤマト』を考えるブログです。

横山論文を読む:『ヤマト復活篇』へのまなざし

こんにちは。ymtetcです。

先日このブログで、横山孝一先生の論文を紹介しました。基本的には『2202』を中心にリメイクヤマトを批判した内容なのですが、研究のプロフェッショナルが実名で公開しているだけあって、そのクオリティは一般的なレビューとは一線を画しています。

そこで、これから時々機会をとって、論文に書かれている内容からテーマをピックアップして、記事を書いてみたいと思います。

今日は『復活篇』を横山先生がどう見ているか、というところから、いくつか私なりの意見を書いてみたいと思います。以下、論文は「横山論文」と呼称することにします。

横山論文は、かつて『ヤマト』を作った西崎さんたちの世代と、『ヤマト』を観て育ったヤマト世代とを対比させている点が特徴的です。

論文は、『ヤマト』ファン自身が『ヤマト』の主題を裏切り「自己中心的な大人になってしまった」と指摘し、ヤマト世代を「自己犠牲を否定して自己中心的に生きる人たち」と批判します*1。そして『2202』に対し「この平成ヤマトの個人主義はあまりにも不快すぎる」とする一方*2、『復活篇』については西崎さんが「自身の信念を後世に託した」作品であり、「続編が待望される」と結んでいます*3。ここでは、自己犠牲を尊ぶ「西崎ヤマト」と「自己中心的」なリメイクヤマト、として両者を対比的に捉えようとしていることが分かります。

まず、この横山論文の視点が示唆するものが一つあります。

それは、『復活篇』を批判していたのが他でもないヤマト世代であった、その要因です。『復活篇』が少なくないヤマト世代に批判されたのは、もちろん映画そのもののクオリティとも関係があるでしょう。しかしながら、横山論文は、そこに新たな視点を与えてくれたと思います。それが、

  • ヤマト世代は自己中心的であり、西崎監督の世代はそんなヤマト世代への否定のもとに『復活篇』を作ったので、そもそも両者は合致していない

という可能性です。そもそも「ヤマト世代は自己中心的である」との命題を検証しなくてはなりませんから、あくまで可能性ではあります。しかし、『復活篇』がヤマト世代から批判を受けてしまった要因として、西崎世代とヤマト世代のズレに注目するものはこれまであまり見たことがありません。これはある程度、新しい視点だと思います。

そして、この横山論文の視点は他にも、私たちに新たな論点を示唆してくれていると私は思います。

例えば、『復活篇』が上記の理由でヤマト世代に批判されたとすれば、反面『2202』はヤマト世代から称賛されるはずです。しかし、実態はそうなっていません。であれば、『2202』が「つまらなくなった」要因は*4、横山論文の提示する世代論とはまた別のところにもある可能性が高いと言えそうです。

 

あるいは『復活篇』をめぐっても、さまざまに議論ができそうです。

横山論文は「おわりに」で実写版『ヤマト』を取り上げ、以下のように論文を結んでいます。

(略)波動防壁に守られた平成ヤマトと違って、沖縄特攻で沈んだ戦艦大和とそれをモデルに西崎義展が創造した昭和のヤマトそのままに、山崎貴監督のヤマトは何度も被弾しながら突き進んでいく*5。 

ここでも平成ヤマトと昭和ヤマトを対比しているわけですが、これを読んで想起されるのが、『復活篇』ヤマトのダメージ問題です。

『復活篇』では、劇中のヤマトを傷つけたくない西崎監督と、被弾しているのだからとダメージを描きこもうとする小林副監督の意見のぶつかり合いがあったと言われています。劇中のヤマトが唯一傷だらけになる劇場公開版のラストシーンは小林副監督たちヤマト世代のスタッフが西崎監督を説得した結果で、あのワンシーンさえも西崎監督は嫌がっていた、というのです。

ここには、ヤマトを傷つけたくない西崎監督と、ヤマトに傷を描きこみたいヤマト世代のスタッフの意見のぶつかり合いが見て取れます。ヤマト自身の献身、自己犠牲の表象として、劇中のヤマトに傷を描き込むかどうか。横山論文の提示する世代間対立をここに当てはめてみると、また面白い議論に発展するのではないか、と私は思います。

*1:横山孝一「『さらば宇宙戦艦ヤマト』対『宇宙戦艦ヤマト2202』:昭和から平成へ」『群馬高専レビュー』38号、2020年3月、55頁。

*2:同上、55頁

*3:同上、60頁

*4:同上、54頁

*5:同上、63頁