こんばんは、ymtetcです。
2199と2202の古代進に、ギャップがある。という意見を見たことがあります。多数派ではないでしょうが。今日それと関連して、この二点について考えてみます。
「(波動砲がなくたって)俺達はやれる!」ではなかったのか?
星巡る方舟で、南部と古代が交わした会話ですね。2199で封印されたヤマトの波動砲は、2202で再び使用されるに至りました。
ここに関連して言われるのが「方舟では波動砲を使わずに勝ったのに、何故2202になって波動砲を使うか使わないかで悩むのか」ということです。まずはこれについて考えてみたいと思います。
ここで上手だなぁと私が思うのは、「乗員を死なせるようなことがあったら」という古代のセリフ。
古代君が波動砲を選択肢に入れたのは、「戦いに勝つため」じゃない。勝つだけなら、方舟の時と同じように、俺達(ヤマトクルー)の機転で乗り切れる自信はある。だけど、今は乗組員全員を預かる艦長代理になってしまった。誰も波動砲の使用を禁止していない世界。「波動砲を使わない」というのはあくまで自分の意思だ。自分の意思で、波動砲を使えば終結したはずの戦闘を長引かせ、乗組員を無駄に死なせてしまったら……
まさに加藤が、ヤマト抜錨直前、古代にかけた言葉と同じですね。同じような責任でも、戦術長としてのそれより艦長代理のそれの方がずっと重いわけです。
2202の古代はナヨナヨし過ぎ?
こんなことも言われます。「2199の古代は『方舟』であんなに立派な作戦指揮をやってのけたのに、何故2202になってこんなに悩むのか」と。
これについては2199の設定を上手く利用していると思います。というより、2199のおかげで2202の古代進のドラマがあるといってもいいかもしれません。
2199は古代と沖田の絡みが少ないと言われます。それ故に「星巡る方舟」序盤のやりとりをファンは喜んだわけですが、やはり沖田の存命中に艦長代理を担い、指揮官として直接指導を受けた旧作と較べると、少ないという印象は免れません。
2199の古代は、沖田に直接教えを請うたというよりは、背中を見て育ったに等しい。そこは良い意味で、他のヤマトクルーと変わらない。変わらないのに「艦長代理に相応しいのはお前しかいない」と言われる。
これは真田のセリフですが、他のヤマトクルーもそう思っているでしょう。「古代だろうな」という潜在意識は、あるいはシャンブロウでの戦闘で共有されたのかもしれません。
その責任を、文句も言わず一人で背負おうとする辺りが、2199の古代らしいと思います。「(戦術長の任を)まだお受けする資格がない」とかつて言った古代が艦長代理の任を引き受けたのは、イスカンダルへの航海で得た自信と、成長があったから。ですが、その性格故、自らハードルを高く設定してしまっている。旧作のような、指揮官としての航海の経験もないところに、「(指揮官としての)覚悟を示せ」という沖田の言葉。
沖田のように乗組員を預かり航海を成し遂げたいという使命感と、全てを教わらないうちにこの世を去ってしまった沖田に対するやり場のない気持ちが、古代のメンタルを削っている。こう解釈できるのではないでしょうか。
ついでと言ってはなんですが、土方についても少し考えてみました。
土方は、第13話で艦長の任を引き受けました。面白いな、と私が思うのは、「全員で背負う」という土方の言葉(元は古代が口にしたもの)です。
「俺もお前も」という言葉からして、土方はある意味古代と同じ視点に立ってます。この世にいない沖田の背中を追いかけてもがく古代の横に、土方は立ったわけです。
大事なのは、沖田の代わりとして沖田の位置に立つのではないということ。自分が沖田の位置に立ってしまえば、沖田の背中を追いかけてきた古代の苦しみがぼやけてしまいます。
沖田が遺した約束への思い、この世にいない沖田に対する思いは、共に背負おう。これからも、沖田のいないこの世界で、一緒にもがき続けよう。
そんな土方の思いが、あの言葉には込められているような気がします。